「でさぁ、洋平、やっぱり三組の綾瀬さんと付き合ってるんだろ?」
「……違うって言ってるじゃないか」
何度となく繰り返されてきた質問に、いつもと同じ返事をする。
が、信じてもらえた様子はない。
「けどさっきだって弁当一緒に食ってただろ」
「それも手作りの。しかもベタベタくっつきながら『よーくん、はい、あ~ん』って」
「おいおい、今時バカップルでもしねぇよ、あんなの」
「……あいつは単なる世話焼きなんだよ。昔からそうだったし」
自分でも理由になってないと分かるが、そう言って躱す。
高校生にもなって、左手を添えながら「はい、あ~ん」をしてくる数年来の幼馴染み……それを「世話焼き」というだけで片付けるのは、いかにも無理があった。
「ったく、お前がそうのらくら逃げるから他の男子が無駄に希望持っちまって玉砕するんだよ」
「何人も告白しては『ごめんなさい』って断られてるんだぞ」
「ありゃどう考えたって他に好きな奴がいるからだろ」
「で、思い当たるのはお前しかいないわけで……」
寄ってたかって強弁されるうち、否定するのが億劫になってくる。
黙り込んだせいで勢いづいたのか、いっそう執拗に絡んできた。
「洋平、俺たちがムカつくのはな。お前が綾瀬さんとイチャイチャ仲良く話しながら登校するのとか、睦まじく弁当をつつくところとか、たまに他人が口を挟めないふたりっきりの時空を築いたりするからじゃなくて……いやそれも充分殺したくなるくらいムカつくが……なんと言っても、お前の態度がはっきりしないところだっての」
そうだそうだと、周りで聞き耳を立てていた奴らまでが同意し、
「ただの幼馴染みなんて言い訳、納得できるかよ」
「お互いの呼吸が当たるくらいの距離に顔を寄せるとかありえなくね?」
「綾瀬さんが名前で呼ぶ男子って洋平くらいじゃん」
「名前で呼ばせる男子も洋平だけだぞ」
「なのにお前ときたら……」
と口々に責め立てる。
──針が。
無数の針が視える。級友たちの鼻からメカジキみたいに突き出している。
「お前、綾瀬さんの好意を知っていてわざと無視してんだろ、このヘタレが」
「あーあ、なんでこんなヘタレにあんな可愛い子が……」
責める声、嘆きの声に内心で頷く。
知ってる。胡桃の奴が俺にどういった想いを寄せているかぐらい、誰よりも知ってる。
それに、客観的に見て胡桃がどれだけ優れた子か──
柔らかな顔つきに相応しい人当たりの良さと、黒くて長い髪の重さを引きずらない明るさ、よく通る声とはきはきした口調、しなやかで細い長身は適度な丸みに帯びていて、体育の時間は特に目を引き寄せられそうになる。
普通に考えれば、そんな子が自分に好意を示しているなら喜んで受け入れるところだろう。
でも、俺は、意識的に避けている。
他でもなく、あいつの想いを知りすぎているからだ。
俺にはちょっとだけ特異なところがある。
普通の人間が見えないようなものが「視える」のだ。
別に、幽霊とか妖怪とか、おどろおどろしい存在ではない。
俺が「視える」のは、人の感情だ。
例えば母親に叱られたとき。
その頭に角が視えた。縁日で売っている鬼のお面みたいな黄色い円錐の角。
今思うと間抜けな光景だが、子供心には文字通り角を生やした母の姿が異様で恐ろしかった。帰ってきた父に「おかあさんの頭に角があった!」と言っても笑われるだけで取り合ってもらえなかった。
俺は当然他の人も似たようなものが視えていると思っていたし、噛み合わない会話にもどかしさを覚えていた。
似たようなことを繰り返すうち、近所や親戚の間で「洋平は空想癖の強い子供」と言われるようになった。
あんなにはっきりと視えているのに、空想だなんて……俺は躍起になって主張する。
結果はいつも虚しかった。友達と思って遊んでいた子にも信じてもらえなかった。
小二の時、夏休みの読書感想文を書くために借りた児童向けの本で、不意に悟った。
それは周りの人間の心が読めてしまう、いわゆる「読心術」を持った少年の話だった。
彼は常軌を逸した能力のせいで不幸になっていく。待ち受けるのは孤独な破滅……
自分と少年とを重ね合わせ、次第に自分の視えるものが他人にはどうやっても視ることのできないものなんだと納得するに至った。
秘密を明かすとろくなことにならないことも学び、以来誰にも話すことなく過ごしている。
変なことを口にしなくなり、家族も、親類も、俺が空想癖を卒業したと思ったことだろう。
さて。人の感情が視えるとは言ったが、実のところ、あまり便利な能力ではなかった。
いや、そもそも能力とすら言えないのかも。
自分の意志で使えるものではなく、勝手に視えてしまうものだから、能力というより体質に近い。視えるのも相手の感情がこちらに向いているときだけで、よそに逸れているときは何も視えない。
つまり、「相手がこちらをどう思っているのか」だけが視覚イメージとして伝わってくるのだ。
差し当たってこの現象を「隠喩」と呼ぶことにしている。
怒りが角、やっかみが針と、意味するところは分かりやすい。
だが、明確に喜怒哀楽が分類されるわけではなく、いちいち読み取る必要がある。
便利ではないが、厄介でもない。
元より相手の顔色をいちいち窺って行動するほど殊勝な性格ではなかったから、どんな隠喩が見えても少しばかりの注意を払うだけで気にせずやりすごしてきた。
所詮は視えるだけだ。目をつむってやりすごせばそれで済む。日常生活に支障はなかった。
そして隠喩は隠喩に過ぎない。相手が具体的にどういったことを考えているか、までは分からない。
抱える悩みなど、望まずとも他人の本音が聞こえる読心術者よりかは、ずっと軽かった。
初めて綾瀬胡桃と出会ったのは十歳になる直前の夏だ。春生まれの胡桃は既に十歳になっていただろう。
隣の家に引っ越してきた彼女は、偶然にも俺のいたクラスに転校生としてやってきた。
おかげで顔を合わせる機会が多く、最初に対面したときはやけに意地っ張りだったあいつが仕掛けてくる喧嘩を躱したり、あいつの作った料理をお裾分けされたりしているうちに親密になっていた。
真性の幼馴染みではなかったけど、たまに物心ついた頃から一緒にいた気がしてくるほどだった。
出会って間もないときから胡桃の好意は察していた。
彼女は俺を見るたび、胸に白い花を咲かせた。
道端に咲いているような、ありふれていて小さく質素な花だったけれど、温かみのある素朴さが心地良かった。
折れてしまいそうな繊細さの中に、しっかりと根を下ろそうとする力強さがあった。
白い花弁に徐々に赤味が差し、色が変貌していったのは小六のあたりだったか。
ふと視線を向けると胡桃が熱っぽい目をしていたり、ぬらぬらと瞳が潤んでいることが多くなった。
さりげなく、と見せかけて体を寄せてくる割合も高くなっていた。
誰よりも胡桃の想いを知っているつもりだった俺は困惑した。
そこで露骨に無視したり、冷たい言葉をかけたり、体を引き剥がしたりすると、胡桃の花は捩れた。
針金細工みたいに捩れて、そのまま止まってしまう。
本能的な恐怖に胸を衝かれ、それとなく謝って優しくし、機嫌を取ると捩れはゆるりと解消された。
綺麗な花に戻ってホッと胸を撫で下ろすが、胡桃の縋るような視線とともに赤味はいっそう増している。
中学に上がって制服を身にまとうようになると、胡桃の膨らみ始めた胸の奥にはショッキングピンクの大輪が咲き誇った。道端なんかでは生き残れない、過剰に養分を欲する花。毒々しいまでの鮮やかさ。俺が少しでもつれない素振りを見せると、己の茎を捻じ切らんばかりに乱れた。
他の女子と会話をしただけで、葉が紅蓮に染まって火を噴くのだ。
それでいて表情はといえば、平静に穏やかな微笑みを保っている。胸の花ばかりが赤い。
胡桃の内心で荒れ狂う感情と取り繕った顔の差には、幾度となく背筋が凍りついた。
付き合っていると明言したわけでもないのに胡桃の独占欲は日に日に強まり、花は奇形に育っていく。
周りは誰も気づかない。俺だって、隠喩がなければ何一つ知らずにいただろう。
知っていてわざと距離を一定に保ち続ける俺のことを、胡桃はただ鈍いだけと思っているみたいだ。
しかし、それもいつまで続くだろうか……
「よーくん」
驚いて振り返ると、背後に胡桃がいた。
まただ。こいつはいつも、狙ったように現れる。放課後は図書館で過ごす俺と弓道部で部活をする胡桃。
時刻を約束してるでもなく、携帯でも使わなきゃすれ違いかねないのに、いつもばったり出会う。
休日でもそうだ。ストーキングを疑ったこともあるが、尾行を確認したことはないし、四六時中
俺の後を付け回していられるほどこいつも暇じゃないはずだ。
なのに、なぜ……
「さ、一緒に帰ろ」
俺の狼狽も知らぬげに微笑んで手を取り、ぎゅっと指を絡ませて引っ張る。
外野で級友が揶揄の口笛を吹くが、彼女は一向に気にしなかった。
抗わず、手を引かれながら、俺は胸を……今やだいぶ大きくなって、無造作に制服を押し上げている隆起の向こうをそっと覗き見た。
高校に入学して一年ちょっとだろうか。
──胡桃の花はもう、食虫花になっている。
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