よーくんが自慰をしているのに気づいたのは、中一の秋だった。
その頃、よーくんが寝付くのを視守ってから眠りに就こうと頑張っていた。
でも、わたしは十時前に寝てしまうのに、彼はもっと遅くまで起きてるようで、なかなか難しかった。
よーくんの寝顔を見てから眠ったら気持ちいいだろうなぁ、と思いつつカーテンの彼方を眺めていた。
すると、まだ十時前なのによーくんは消灯してベッドに潜り込むところだった。
これはチャンスだ。よーくんが寝付く瞬間を捕捉しよう。
多少浮き立った心で観察したけれど、彼は輾転反側と寝返りを打つばかり。
もう涼しくなって寝苦しい季節でもないのに、どうしたんだろう?
じっと「眼」を凝らしていると、よーくんは掛け布団を跳ね除けて起き上がり、電気を点けた。
眠れないのかな……何か悩みでもあるのかな……って心配していたら。
突然、パジャマのズボンを下ろした。パンツごと。
思わず「眼」が丸くなった。無論、比喩だけど、実際そんな心地がした。
部屋で寛いでいるときはだらしなく股間を掻いたりお尻を掻いたり、なぜか腋の下や足の裏を嗅ぐような奇行に及ぶよーくんだけど、パンツを下ろしてアレを剥き出しにするのは初めて見た。
半ば思考が止まっているわたしをよそに、よーくんが晒し出したものに手を伸ばす。
何度か視たものではあった。が、まさか「勃起」という現象があれほど凄いとは思わなかった。
よーくんのそれは普段とはまるで別物で、自分の体内に飼っている動物を引っ張り出したようにも視えた。
慣れた指つきで皮をめくると、ゆっくりとしごく。日課のように、ぎこちなさを感じさない動き。
事実、日課だったんだろう。たまたま、その日がいつもより始めるのが早かっただけで。
いつもはわたしが眠ってからの時間帯にしていたというだけで……
「オナニー」という言葉は聞いていたし、概ねどんなものかも知っていたが、いざよーくんが
しているところを視るとショックを受けた。よーくんが男の子なのは当たり前だし、わたしだって
異性として意識しているし、求められれば、えと、その、やぶさかではないつもりだった。
しかしそれはそれ、だった。知識としてしかインプットしていなかった事柄を「眼」の前で堂々と(そりゃ、視られてるとは思ってないだろうけど)遂行されると、動揺しすぎて思考がポッカリ空白になった。
これは、さすがに、視ないでおいた方がいい……遠くから理性の訴えが響いた。
でも、蠢く指に翻弄されて跳ね回るよーくんの秘密めいた場所から「眼」が離せなかった。
テスト勉強しなきゃいけないと分かっているのに他のことがやりたくなる、あの気持ちを百倍強化した感じ。
よーくんはきつく目をつむって指を動かし続けた。
静かに。黙々と。
……ねえ よーくん、
その脳裡に 何を 誰を
思い浮かべているの ……?
思考の空白が埋まり、足早に訪れたのは興奮ではなく、虚しさと哀しさだった。
こんなに、わたしが視ているのに、そばに感じているのに。
手が届かない。わたしの手が、伸ばしても伸ばしても、どこにも届かないのだ。
やがて言葉もなく欲望を吐き出し、気だるげに脱力した後で処理にかかる一部始終を、泣きたくなる気持ちのまま視守っているしかなかった。
どんなに遠くが視えたって、すぐそこにいるよーくんの頭の中を視ることはできない。
彼が何を考え、思っているのか、分からないままただ視ていたってどうにもならない。
──わたしは、手を届かせたかった。
行動を起こさないといけないのは自明だったけれど、さりとて具体的な方策はなかった。
昔からずっと露骨なくらい好意を示してきたのによーくんが反応してくれないのはただ鈍いだけじゃなく、知っていてわざとわたしから距離を置いているんじゃ……って考えると告白には踏み切れなかった。
よーくん、好き──胸の裡でなら、何千回、何万回と呟いた。
舌に乗せる直前まで行ったこともあった。でも、断られるのが怖くていつも後回しにしてきた。
頑張ろうとは思ってみても、勝算を見積もる材料が乏しくて、不安だったのだ。
自分に自信は持っていた。よーくん以外の男子にだったら何人も告白されたし、よーくんだってチラチラとわたしの体に視線を這わせるようになった。満更興味がないわけでもないだろうし、
まったく異性として意識していなかっただなんてありえない。
よーくんがあくまでわたしという存在を欲しいと思っているのか、それとも不特定の女の子に対する関心がたまたまわたしの方にも向いているだけなのか、その判断はつかなかったにしても。
別にどっちでも良かった。よーくんがわたしを「綾瀬胡桃」としてではなく「手近なところにいる
女の子」として見ているのでも構わなかった。よーくんが他の子を見さえしなければ、わたしは
それで充分なのだ。
他の子を、見さえしなければ──?
ああ、なんだ……簡単なことじゃない。
わたしはようやく方針が見えた気になって笑った。
よーくんに、わたし以外の女の子との接触を断たせればいいんだ。
性欲を持て余している彼は「女の子なら誰でもいい」って思ってるかもしれない。
選択問題みたいにいくつかの候補があればよーくんの気持ちはどこに向かうか予想できないけれど、わたし以外の子と関係を深めることができない状況に追い込めば、彼は自然とわたしを唯一の候補と見做すようになるはず。選択肢が一つしかなければ、誰だってそれを選ぶしかないんだから。
よーくんの人間関係を封鎖する。見えない檻に閉じ込める。それが、中学生の間に心血を注いだこと。
席替えのときは籤引きの中身に「眼」を向け、必ずよーくんの隣を確保した。存在を近くに感じられる点でもうってつけの位置だったけど、よーくんに近づく女を汀で迎え撃つ絶好のポジションでもあった。
行動を監視するのは当たり前。そばを離れているときによーくんが他の子と会っていても、偶然に見せかけて駆けつける。携帯の番号を交換するような女友達は絶対につくらせなかった。
ただ視ているだけでは無益な力も、行動と結びつければ役立つにことこの上ない。
いつもよーくんを視てる、という安心感があった。彼がわたしの知らないどこかでよからぬことをしているのでは、という不安に苛まれることもなかったから余裕も湧く。自慰に飽き足らなくなって悶々とするよーくんは遠からずわたしに食指を伸ばすと信じて疑わず、泰然と構えていたわけだ。
その安心感と余裕が仇となったのかもしれない。持久戦に耽っているうち、中学を卒業してしまった。
──このままでは駄目だ。もっと積極的な策を取らなくちゃいけない。
募る想いと焦りから、警官だった祖父の部屋に忍び込んで手錠を調達した。
然る後、よーくんを部屋に誘い込もうと試みた。
オナニーばかりを繰り返すのはよーくんの体にも良くない気がしたのだ。彼のためを思うからこそ、手段なんて選んでいられない。わたしから襲うみたいな形になるのは内心忸怩たるものがあったし、よーくんの自由意志を蔑ろにするみたいで心苦しかったにしても、こっちにはちゃんと愛情があるわけで結果的にはよーくんも満足してくれるに違いないから別に犯罪じゃないよね。うん、完璧な理屈。
でもよーくんはどんなに誘っても部屋に上がろうとはしなかった。
もう気軽に部屋を出入りできる年頃ではないんだ、と気づいた。ああ、もっと早くやっておけば……
悔やんでも仕方ない。
しかし諦めることもできなくて、鍵の掛かる引き出しにはまだ手錠が仕舞ってある。
周りのみんなはわたしをよーくんの彼女って見てくれている。
残念ながらよーくんは「違う」って否定するけど、形成された包囲網が一種の圧力になっていたはずだ。
しかし今、それも綻び始めている。
「おい、胡桃。あんたの彼氏が一年の子と浮気したとかしないとか、やたら噂になってるよ」
「よーくんが浮気だなんて、そんなまさかぁ」
心配そうな梓に、繕った笑みで応えながら、穏やかな気持ちではいられなかった。
千里眼で声まで聞くことはできない。でもちょっとだけなら唇を読める。
「せんぱい・すき」「つきあって・ください」──何かの間違いなら良かったのに。
荒木、麻耶。ちっちゃくて可愛くて、遠い国のお姫様みたいな下級生。
男の子に対して冷淡で、つれない素振りが得意な子だけど、だからって安心はしていなかった。
よーくんは生意気な女の子を転ばす素質があるから……昔のわたしみたいに。
用心して早めに釘を刺しておかなきゃって思っていたら、タッチの差で先を越されてしまった。
今からでも刺せるかな。うん、刺さないと。
何を?
釘を。
刺したいな、あの青い目に。刺したいな、あの高い鼻に。
顔中、釘・釘・釘で埋め尽くしてあげたいな。
あはっ──喩えだけどね?
「うっ。胡桃の表情……なんか怖くね?」
「そう?」
昼休みになったことだし、お弁当を小脇に抱えてよーくんの教室へ向かう。
ごはんを一緒に食べるのはわたしたちにとって日常の一部だ。誰にも邪魔はさせない。
教室の前まで来た。開け放たれた入口から中を覗く。
あの女が。よーくんのそばに立って、あろうことか──手まで握っていた。
体温が下がる。口のあたりが強張りそうになる。訳が分からない。
ねえ、荒木さん。あなた、誰の許可を得てそんな近くにいるのかな?
よーくんにはわたしという存在がいるってこと、分かっていてふざけた真似をしてるのかな?
冗談も度を越すと、笑えなくなるよ?
「…………あはっ」
笑えないと思いつつ、込み上げてくるのはおかしさだった。
怒りや憎しみが歴然としてある一方で、笑い出したくなる気分もどんどん湧いてくる。
ずっと待ち望んでいた、「好き」って告白を口にする機会、先に取られちゃって。
わたしだけが握ることのできたよーくんの温かい手を、べたべた触られちゃって。
ここまでやられちゃったらさ……なりふり構っていられないよね?
なりふり、構わなくていいよね?
今まではよーくんとの関係が壊れるかもって恐れていたけど──もう箍を外そう。
決心すると、なんだか、わたしがようやく「本当の自分」になれたような……解放感と充実感を覚えた。
聖書の言葉にあったっけ。土は土に、灰は灰に、塵は塵に、ゴミはゴミ箱に。
掃除の大切さが身に沁みるね。実力行使だって厭わない心境でGO、だね。
例えば。雑菌だらけというより雑菌そのものな手を切り落としてやるとか。あはっ。
他にも、よーくんを誘惑する猫なで声が二度と出せないよう、あの子の声帯でも切っちゃうとか。
なーんてね。
ふふ……でもわたし、声帯ってどのへんか知ってるよ……
だって、視えるもの。
(Act.5へ)