泥(なずみ)


「沃野」(Act.8)

「先輩。遅参ながら荒木麻耶、ただいま駆けつけました」
 いつの間にか下級生の頭がちょこんと横に来ていた。背が低くて視界に入らなかったのか。
「呼びもしないのに……本当、邪魔なときだけ来るよねー」
 と頬に手を当てて溜息をつく胡桃。口振りは冗談めかしていて、わざと憎まれ口を叩いているように装っているが、目は笑っていなかった。
「はい、目を離している隙に先輩が頭のおかしなビッチさんに咬まれて狂犬病になってはかないませんので」
 まじめくさって頷く荒木は、早速俺の鞄を奪って手を握ろうと虎視眈々の構え。
 ゆら~りゆら~りと脱力させた腕でしきりに間合いを計っている。
「あはは、荒木さん、ヤンキーゴーホームって言葉知ってるかな?」
「おや、もしかすると綾瀬先輩は戦前とか戦中とかのお生まれですか? ははあ、さすが昭和製は違いますねえ。なんとも秀逸なアナクロニズムに言葉を失います。何せ、ほら、私と先輩は平成生まれの人間ですから。温故知新の驚きでいっぱいです」
「頭がおかしいのはあなたじゃないかな荒木さん、わたしも平成生まれよ?」
「なら言わせてもらいますが綾瀬さん、私も日本人ですよ? ヤンキーと言われても何十年か前に絶滅・化石化した、深夜の学校の窓ガラスを割って盗んだバイクで走り出す種族のことしか連想できません」
「バイクは盗まないけど、人の男は盗む気満々な子なら、わたしも簡単に連想できるよ」
「盗むだなんて……綾瀬さん、洋平先輩はモノじゃありませんよ? 取った取られたとか子供の喧嘩みたいな言葉を使うのはやめていただけませんか」
 罵り合いの中でさらりと言われたものだから、俺はうっかり聞き流してしまった。
 聞きとがめた胡桃が文句をつけたことでやっと気づいた具合だ。
「……ちょっと、荒木さん? いま、よーくんのことなんて呼んだの?」
「え? 洋平先輩、って。いけませんか?」
「何、それ」
 わなわなと全身が震え出している。
「なんであなたがよーくんのことを洋平なんて呼ぶの?」
「いえ、ちゃんと後に『先輩』ってつけてま」
「黙って!」
 叫ぶ胡桃。何かが彼女の逆鱗に触れたようだった。
「おい、胡桃、どうし……」
「よーくんのことを……よーくんのことを……よーくんのことを……」
 息が荒くなっていく。取り乱そうとする自分を抑えるかのように目をきつくつむっている。
「よーくんのことを、名前で呼んでいいのは……」
 搾り出すような声で。
「……わたしだけなんだから……!」
 ゆるゆると目蓋を開き、細目の、激昂をギリギリで耐えている表情。繋いだ手にも震えが伝わる。
「だから……! よーくんに向かって図々しい呼び方、しないでくれる……!?」
 まったく余裕のない、必死な声。
 それを、荒木は。ちょうど俺と出会った頃の頑なで冷ややかな顔つきで迎え。
 見下ろされているのに見下しているような、不思議に高圧的な光を目に湛え。
 鼻で笑いながら言った。

「バカみたい」

 瞬間、荒木の頬が鳴った。
 止める間もない、流れるような平手打ちだった。
 手を振りぬいた胡桃は、荒木に対抗して温度の低い表情を顔に貼り付かせていた。
 ゾッとする。
 こいつは出会った頃の生意気な時期ですら、こんな顔をしたことはなかった。
 けど、一度だけ。胡桃がこうやって体温をなくした相貌に変じたのを見た記憶がある。


 小学校五年生。親しくはなったがまだ胡桃の花は色づいてなくて、何の衒いもなくあいつを「友達」と呼ぶことができた、ひどく穏やかな時代にその記憶は収められている。
 俺とあいつは同じクラスだった。俺は今と変わらずヘタレで、成績も運動もパッとせず、周りのウケを取れるような面白い子供でもなかった。胡桃と遊んでいてからかわれたり冷やかされたりしても、本気のやっかみはほとんどなく、なんにも気兼ねしないで過ごしていられた。
 けれど、胡桃の方はそうもいかなかったようで。男子をガキ扱いして大人ぶる早熟な女子たちに、彼女は少し妬まれていたようだ。まだ体は大して膨らんでいなくて発育の度合いは並程度にしても、周りと比べて容貌が綺麗だったのだ。「可愛い」ではなく一歩先に進んで「綺麗」の域に達していた胡桃を、特別気に掛ける女子児童がいた。
 その子は際立って美人でもなかったが、不美人というほどでもなかった。大人だったら君だって充分可愛いし綺麗なんだから自信を持って、と個性尊重めいた言い回しで励ますところだろうが、つまるところ、女子の社会は比較論だったみたいで。
 きっと、「充分」では不充分なのだ。
 容姿以外での面に優れていたのに付け加えて、その子が気になっている六年の男子が胡桃へ想いを寄せているという噂もあった。その噂の真偽については寡聞にして知らないが、噂があったこと自体は聞いている。その子の内側で妬みが何倍にも増幅されたに違いない。
 鬱屈の結果として彼女が採択したのは真っ向勝負ではない。単なる憂さ晴らしだった。
 端的に言うと、胡桃とやたら仲の良かった男子──つまり俺にベタベタとまとわりつき、馴れ馴れしくすることで胡桃にイヤガラセしようと考えた。
 尋常な仕掛け方では勝てないと悟ったからそんな真似をしたのだと思えば少し哀れに思うが、憂さ晴らしで仲の良いフリをされるのは俺にも迷惑だったし、胡桃にとっても不快だったようだ。
 しばらくは我慢を強いていた様子だったが、やがて口論になった。
 別に付き合っているわけじゃないんでしょ、本気になってバカみたい──
 笑われて胡桃はグッと詰まった。当時の俺はガキすぎて付き合うとかどうとかってことを意識する頭はなかったから、胡桃とてうまく言い返せなかったのだろう。いや、よく考えると今も同じ状況か。
 とにかくそれで当の子はいっそう調子づき、何ならあたしと付き合わない──と媚びてきた。
 冗談なのは分かりきっていたし、「やだよ」とすげなく断ってやった。
 えー、んなこと言わないでさー、洋平──
 そいつが俺の名前を口にした瞬間。胡桃の表情がスッと削げ落ちた。

「よーくんを……呼び捨てにするな」

 怒気を顕わにするよりも怖ろしい、何かが欠けた無表情だった。
 生意気だった時期の胡桃は平気で俺のことを「洋平、洋平」と呼び捨てにしていたが、険が取れて朗らかな笑顔を見せるようになったあたりから、親しみを込めて「よーくん」と口ずさむようになった。いくら小学生たってそのあだ名は恥ずかしい、と抗議したけど聞き入れてくれなかった。
 いっそ以前と同じく呼び捨てにしてくれた方が楽なのに、俺も胡桃をそうしてるし、って言ったら。
「ダメだよ、あの頃のわたしとはケツベツしたんだから」
 と胸を張り、「うーん、でも」と考える素振りを見せて。
「もし……わたしとよーくんが、恋人としてお付き合いするよーになったら、そのときは改めて
よーくんのことを、『洋平』って呼ぶようにするから、それまで待ってくれないかなぁ」
 と。にっこり笑って、「だから、よーくんも、他の子に名前を呼ばせないでね」とも付け加えた。
 てっきり新手のジョークだと思って間に受けなかった。すぐに思い出さなくなった。
 単に胡桃以外で女友達ができなかったから、野郎にしか「洋平」って言われなかったのだ。

 ひょっとすると、胡桃にとっては。
 「洋平」という、俺のありふれた名前が聖なる盟約になっているのかもしれない──

 胡桃が本気を出してしまったから、あの喧嘩はあっさり幕を引いて後に続くということがなかった。
 そして今思えば胡桃の花も、あの時から肥大化を始めたような気がする……



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[PR]
by sikaisen | 2007-04-13 22:04

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