泥(なずみ)


「沃野」(Act.10)

 決めた。
 朝。ベッドから上体を起こし、心に誓った。
 今日、よーくんに突撃する。
 罠かもしれない。疑いは捨て切れなかった。でも、足踏みしていたところで何も変わらない。
 ゆっくり地歩を固めて……なんて考え方をするには、もう時間が経ちすぎている。よーくんと出会った日から既に七年。小学中学の時に何もできなかった恨みを、一年生の頃に決定打を出しあぐねた悔やみを、今ばかりは晴らなきゃダメだ。
 わたしは、ようやく決めた。
 穿った見方をすればあの下級生のおかげかもしれない。彼女がよーくんに余計なちょっかいを掛けてきたからこそ、踏み切る気になったんだから。なりふり構わないという覚悟もついた。もしあの子の介入がなければ、「そのうちよーくんの方から……」という待ちの姿勢を崩すことができなくて、消極的に誘うことしかできないまま時間が過ぎていたかもしれない。
 そういう意味では、感謝していいのかな。
 憎らしくて、弓射の的にしたい雌狐だけど、後押しの要因にはなった。
 いや……感謝なんてしない。
 あの子は敵だ。
 たとえこの勇気が与えられたものだったとしても、あくまでわたしのもの。
 敵には感謝しない。容赦しない。
 あげるのは、報いの矢だけ。

 とはいうものの。いざアタックするとなるとよーくんは難物だ。
 わたしだって知り合ってからずっとまごまごしていたわけではなく、「あ、いい雰囲気だな……」と肌で感じ取ったときはそのまま押し切ろうと頑張ったこともあった。
 けど、よーくんの鈍さは鉄壁だった。「いい雰囲気」を平気でぶち壊すような真似をしてしまう。
無神経といっていいくらいの言動で、わたしの気勢を一瞬にして削いでしまうのだ。それでなんだか冷めてしまって、「今はよくない、またにしよう」って気分にさせられる。
 よーくんは熱情を萎えさせるスペシャリストだ。
 よほど強い気持ちを保っていかないと、有耶無耶な結果に終わりかねない。
 一気呵成に攻め込んで瞬時に落城させることが肝要だと思う。

 そこで梓に相談してみた。
「ねえ、よーくんを確実に陥落させるにはどうしたらいいと思う?」
「背後から棒で叩きのめして動けなくなってる間に既成事実をつくればええんでないの」
 うわ、乱暴すぎ。わたしはせいぜい睡眠薬を盛るくらいしか考えてなかったのに。
「というかもっとまじめに考えてよ」
「知るか。こちとら生まれたときから彼氏がいないんでい。モテない女の考え休みに似たりぜよ」
 チューチューと紙パックの苺牛乳を啜りながら眉を顰める梓。
 ストローから口を離すと、わたしをじろじろ眺め出した。
「? なんなの?」
「いや、さ。ふと思ったんだけどな。あんたみたいな子がそばにいて手ェ出そうとしないってのは、ひょっとしてよーくんイン──」
「ああそれはないから」
 さらりと答えてしまってから気づいた。
 やば。この回答は不適当だ。
「え? なにその確信に満ちた言葉。ねえねえ、見たことあんの? 見たことあんの?」
「なんで二回聞くの。ないって。だからないってば。それよりもよーくんのことだけど」
 否定して話を戻そうと試みる。
「だーかーらー、あたしに恋愛相談なんてお門違いだっての。童貞踊り食いの方法なんか聞かれたって答えられるわけねーだろ。気合と根性でなんとかしろよ、けっ」
 

 梓は参考にならなかった。あの子は恋愛経験皆無なうえちょっと頭の弱い体育会系の人だ。仕方ないのかもしれない。
 気合と根性──それでどうにかなるなら今頃わたしは一姫二太郎に恵まれ子育てに忙しい時期だろう。
 精神論では頼りにならなかった。
 さりとて。好きと言っても、ふたりきりになっても、一向に手を出そうとしないよーくんを振り返らせる手段は簡単に思いつきそうもなかった。当たって砕けるのは勘弁なのだ。当たるからには落としたいのだ。
 幸い、今よーくんの両親は家を空けている。帰ってくるのは早くとも明後日の朝だと言っていた。 本気で攻略するなら今日をおいて他にない。
 失敗はしたくなかった。
「あー、どうしてもっていうんなら、一つやれるもんがあるけど」
 参考にならない相談相手が、空になった紙パックを捨てるとごそごそとポケットを探った。
 財布を取り出し、その中から引っ張り出したのは──錠剤のヒート。
「なに、これ?」
「興奮剤の一種だって。塩酸だかクエン酸だか知らないけど、まあそんなの。服用すりゃ一時間で効くとか」
「ひょっとして、違法なやつだったりする?」
「さあ。知り合いから『どんなインポでもケダモノになる』って触れ込みで押し付けられたけど、あたしにゃ使う機会ないからな、捨てようかと思ってたとこ。一錠だけやるよ。全部やるとなんか結果が見えて怖いしな」
 パチリパチリと鋏で一錠分だけ切り取る。
「……飲んでも大丈夫なの、これ」
「知らん。保証はしない。聞いた話じゃなんでも劇薬指定されてるらしいから気をつけろよな」
 迷ったけど、受け取るだけなら別にいいか、と思って頂戴しておいた。

 で。今まさに、よーくんの夕食にそれを混ぜ込むところだった。
 はじめからそれを狙っていたように仕込む指を見て、わたし自身が驚いた。
 ──下校して、よーくんのお父さんとお母さんが不在であることをいかにも今思い出したとばかりに「あ、じゃあ、今日はわたしが晩ご飯をつくってあげるよ」と提案したら、すんなり受け入られた。
 これまでも何度かあったことだった。よーくんはわたしの手料理を食べることが半ば習慣化していて、ご飯をつくるためにキッチンへ入っていくのに違和感を覚える気配はなかった。
 支度をしている最中、ふと午前中に梓からもらった薬を思い出し、流れる仕草で放り込んでしまった。
 何も本当に使うつもりではなかった。いくら信用できる友人がくれたものとはいえ、処方薬でもなく出所のはっきりしないものをよーくんに飲ませるのは抵抗があった。
 薬の力に頼らなくたって……と気負って発奮するところもあったのだ。
 それが自覚する間もなくあっさり挫けてしまったのは、焦っていたからだろうか。
 荒木麻耶という恋敵の出現に全力で取り掛かる気になって。
 彼女が、不可解な離脱を表明して、よーくんとふたりきりでいられるようになって。
 なのに過ごした昨日という日は、あの子が出てくる以前の日々とまったく変わりなくて。
 たとえあの子に負けないとしても。このままではよーくんとの距離が詰められないんじゃ……?
 そんな不安が高まっていたからかもしれない。
 なりふり構わないつもりでいた。
 けれど、それは要するに。なりふり構っていてはよーくんを口説き落とすことができない自信のなさの裏返しではないかと、わたしは自分の弱さに目を背けることができなくなってきた。
 弱い──だから、道を踏み外そうとしてしまうのかな。
 でも今更後戻りをする気にはなれなかった。このまま突き進むしか手立てはなかった。
 わたしがしたことを知ったら、よーくんは怒るかもしれないね。
 ……うん、いいよ。
 よーくん──好きなだけ怒って。
 その怒りのすべてをぶつけて、骨の髄まで罰してほしい。
 嫌がるつもりはなかった。どんな責めでも受けるつもりだった。
 どんな責めかと考えていると、楽しくなって口の端がにやけて止まらなくなった。


 夕食の終わりから一時間が経過した。
 よーくんと一緒に食器の片づけを終え、ソファに並んでテレビを見ながら食後のお茶を飲んでいた。
 ──そろそろ、帰った方がいいんじゃないか。
 これまでならそう切り出していた時間帯。言われるとわたしは、強く抗う気もしなくて引き下がってきた。
 けど今日は違う。母にも「友達の家に泊まる」と言っておいた。よーくんとは、悔しいけどまだ友達の段階だから、別に嘘はいっていない。これから嘘にしていくつもりではあるけれど。
 で。こんな時間になってもよーくんがお決まりの退去勧告を切り出さないのは、それどころではないから。
 目が充血している。顔も赤くなっている。下半身を「視」ると──いや、肉眼でも硬く膨らんでいるのが分かる。
 こういう状態を「ギンギン」と言うのだろうか。梓がくれた薬は、効果があったようだ。
 さっきからずっと落ち着かない素振りを見せている。隣に座ったわたしとの、微妙な距離を意識しながら離れることもできず近づくこともできずに迷っている感じ。
 画面の中では恋愛ドラマが演じられていて、ちょうどキスシーンが映るところだった。
 普段のよーくんなら恥ずかしげに俯いたり、咳をしながら気にしてないフリをしてそっとチャンネルを変える。
 今は、食い入るように重なり合った唇と唇を凝視していた。
 破顔しそうになるのを堪えた。もはやだいぶ理性が溶けてきている様子のよーくんだけど、ここで訝しく思われるのは避けたい。むしろよーくんの行動を不審がって、「どうしたの?」と心配そうに声をかけたりしてみた。
 よーくんはハッとしたような顔になって「な、なんでもない」と声を震わせた。
 あと一押し。
 ほんのちょっと背中をつつくだけで、彼の自制心は決壊する。手に取るように分かった。
 王手をかけた気分。生かすも殺すもわたし次第って状況。
 なんだか無性によーくんをいじめたくなってきた。
「さっきからおかしいよ。顔も赤いし、熱でもあるの?」
 無造作に手を伸ばして額に触る。咄嗟に跳ね除けようとしたよーくんは、触られた途端ビクンと跳ねて体を硬直させた。
 ああ、こんなに敏感になっているなんて……あの鈍感なよーくんが……
 掌に熱が伝わってくる。ひどく心地良かった。
「わ。本当に熱があるんじゃないの?」
 白々しく言って顔を近づける。前髪を上げ、晒したおでこをくっつける。間近で見詰め合う形になる。
 目を見開いたよーくん──瞳孔が散大した。
 あと何秒持つかな……ふふ……
「く、胡桃……はなれ、ろ……」
 理性の軋みが聞こえる。愉快すぎる。
 駄目を押そうと、そっと吐息をついて彼の産毛を揺すり──
「胡桃……っ!」
 次の瞬間。バッと、逃げようとしても逃げられない凄い勢いで、唇を奪われた。
 強く強く押し付けられる。歯もぶつけられた。荒々しい衝動的なキス。慣れていないことが丸分かりだ。
 よーくんからされる、初めてのキス……寝てるよーくんにわたしからそっと口付けした回数は数え切れないけれど、彼の方が奪ってきたのはこの一度だけ。嬉しくて涙が滲んだ。
 窒息するほど長い時間をおいてやっと唇を離したよーくんは、わたしが泣き出しているのに動揺した。
「ご、ごめん……」
 謝っても、背中に回した手を離そうとしない。密着した姿勢からドクドクと早足の鼓動が聞こえる。
 このまま、最後まで──もう確信は揺らがなかった。
 よーくんの目を覗き込み、笑いかける。
 よーくん……いや。

「よ……ようへい……洋平!」


 何年も。何年も何年も何年も封印し続けきた想いを彼の名前に乗せる。ずっとずっとずっと言いたかった、洋平、好き、愛してる、好き好き好き好き好き好き好き好き好きちょっといじわるでわたしの気持ちにちっとも応えてくれなくて嫌いになりそうになったこともあるけどその百倍は好きで好きで愛してるんだもの、洋平が、洋平が、応えてくれるなら何だってしてあげるよ恥ずかしくても痛くても何でも何でも何でも、ああ洋平洋平洋平、なんでもっと早くわたしに振り向いてくれなかったの手を伸ばしてくれなかったの唇を舐めてくれなかったのいやらしい本を見て想像するようなことをわたしに何もしてくれなかったの今までずっと淋しくて淋しくて何回洋平のこと恨んだか分からないよ涙で枕を濡らした夜がいくつもあったよ洋平が勝手に自分で自分を慰めた翌日の朝に家から出てきたときはもうそんなことしないでって路上で押し倒したくなったこともあるよ握り合わせた手が昨日洋平のあそこを擦っていたところだと思うとすごく興奮して手をほどいた後にそっと嗅がずにはいられなかったけど汗の匂いしかしなかったよ目を閉じてると洋平が達しているときの顔が脳裡をよぎってドキドキしたよ早く目の前であの顔が見たいと願い続けてきてそれが今ようやく叶うんだ洋平ねえ洋平がわたしの体を見ていやらしいことを考えてるのも知っていたよ当たり前じゃない洋平が持っていたエッチな雑誌とか本とか全部捨てさせたけど胸の大きくて髪の長い子のところにしっかり折り癖がついていたのはちゃんと視たよああいうのが洋平のタイプなんだよねだから髪も切らないで伸ばし続けたしお風呂に入った後は血行が良くなるようにマッサージもしたよ発育にかけては自信があるよ文字通り胸が張れるよあの板きれみたいな荒木麻耶なんかに負けてるとこなんかどこにもないよあんな巻き癖がついた柔らかそうな金髪と海色の瞳と白くてすべすべしていて赤ちゃんみたいな皮膚と見下ろすのに適していてぬいぐるみのように抱き締めて眠るのにちょうどいい体しか見所がない子なんかには、ダメ、あの子なんかじゃダメ、絶対にダメだよわたしが満足させてあげる明日は休日だし一日中ずうっと一緒だよ誰にも邪魔させないたっぷり愛してあげるよおじさんとおばさんが帰ってきても気にしないよずっと繋がってようよ絶対離れないよ赤ちゃんの名前考えようよ

 わたしは、
 わたしが、
 洋平の一番なんだからぁっ!

 感情が爆発して止められなくなった。洋平よりも先に襲い掛かって衣服を剥ぎ取り唇を貪りたかった。
 わたしの方がよっぽどケダモノめいている。
「洋平っ! 洋平っ! ようへぇっ!」
 唇を奪い返そうと彼の肩を掴み、

 突き飛ばされた。

 ……えっ?
 ソファから転げ落ちていく自分の体を、不思議そうに見てるうち背中に衝撃がきた。
 息が詰まる。けほっ、と咳をした。痛みはそれほどない。ただ、呼吸が苦しかった。
「ようへい……?」
 ゆっくりと体を起こす。わたしと同じようにソファから転がり落ちた洋平が、俯けていた顔を上げる。
 そこにあったのは、強い怯えだった。あれだけ赤かった顔が青ざめ、震えている。
「……か、」
 後ずさりしながら呟く。
「怪物……!」
 かいぶつ──その四文字に、ドロドロと魔女の鍋みたいに混濁する感情を見抜かれた気がした。わたしの、よーくんが欲しくてご飯に興奮剤を混入してしまう浅ましさが見破られた気がした。
 今度はこっちが青ざめる番だった。
 気づかれた……何に? すべてにだ。すべてに気づかれて、すべてを失おうとしている。
 死ぬまで隠し通さねばならなかったモノを、よりによって彼の前で曝け出してしまったのだ。
 なんで。なんでバレたの? 惑乱するわたしに、よーくんは顔を背けて言った。
「──帰ってくれ」

「あれ? 胡桃、あんた友達の家に泊まってくんじゃなかったの?」
 母の呼びかけにも返事をすることができず、ふらつく足取りで部屋に辿り着くとベットに倒れた。
 何も考えられなくて、意識を失うように眠り込んでいく。

 その夜──わたしは、悪夢を視た。



(Act.11へ)
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by sikaisen | 2007-04-13 22:16

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