泥(なずみ)


「沃野」(Act.15)

 多幸感が止まらない。甘い疼きが全身を包んで痺れさせる。
 温かい──というよりも熱い。離れていった洋平の体温が、熾火どころか猛火となって肌を灼いていた。
 込み上げてくる笑いを噛み殺しきれず、口の端が歪む。
 ボリュームを絞るのは無理だ。声を挙げてしまえば、隣の洋平の部屋まで届いてしまいそう。だから必死に感情が音へ変わる寸前で気持ちを堪える。
 溢れるほどの幸福を防波堤にして喜悦をセーブ。
 目を閉じて思い返す。
 初めてだったし、うまくできるかどうか不安じゃないこともなかった。けど、いざ洋平を前にすると躊躇いとかみんな吹っ飛んじゃった。
 洋平が年単位で焦らしてくれたものだから……手錠が掛かって抵抗できない姿を見ると、もう我慢ができなかったよ。寝てるときは襲うのはフェアじゃない気がして今まではほっぺと唇にちゅうするだけで済ませてたけど、さっきはもう崖っぷちで後がなかったし、良心が疼く余地はゼロだった。
 最初は洋平も嫌がって虚ろな目をしてたけど、六回も出したんだもの、事後承諾ありってことでいいよね。
 無理矢理だったのは悪かったと思っているよ。でも後悔は微塵もしてない。
 啼かないホトトギスは嘴をこじ開けてでも啼かせるしかないんだもの。
 それにしても。まだ微かな痛みが残るおなかの奥に、洋平のアレがいっぱい詰まってたぷたぷになっていることを考えるとすごく穏やかな気持ちがする。
 あっは。今だったら、笑いながらでも近所の野良猫を射てる!
 ふふ、射たないけど。猫、好きだし。
 避妊なんてもちろんこれっぽっちもしてなかったので、受精する確率はまずまずだと思う。周期から言っても今日は万全な頃合。検査薬と、あと早めに育児用品を揃えなきゃ。
 名前だって考えている。
 洋平の子供だから、洋一。その次は洋二。それから洋三、洋四、洋五、洋六、洋七、洋八、洋九、洋十、洋十一、洋十二洋十三洋十四洋十五洋十六洋十七(…中略…)洋四十四洋四十五洋四十六洋四十七洋四十八洋四十九洋五十洋五十一洋五十二洋五十三洋五十四洋五十五洋五十六……
 女の子だったらどうしよう。
 あはっ。
 ふふ、あはははははは、ふふは。ふふふあはへあはへへへ。
 は………………
 あ、お婆ちゃん、久しぶり。お葬式以来だね。元気してた?
 え? お茶飲みながら話そうって? んー、でも、できたらコブ茶じゃなくてコーヒーにしてよ。わたし地獄みたいに黒くて熱いやつが好きなんだぁ。
 あは、ははは、ふふふふ。
 洋平はもっと好きだよ。あはっ。
 ──あ。
 いけない、いけない。脳味噌のネジが全部はずれかけてしまった。
 危うく彼岸で父方の祖母とお茶会するところだった。
 ネジは締めなきゃ。勝って兜の緒を締めよ、とも言うしね。
 「眼」を使って洋平の部屋を視る。
 ちょうど携帯で誰かと話をしているところだった。
 誰だろう? 洋平の番号を知っているのは家族とわたしを除けば、数人の男友達しかいないはず。
 この前洋平が席を外している間にチェックしたけど怪しい履歴はなかった。
 だから安心していいところなんだけど……洋平、電話使って話すのってあまり好きじゃないし、こんな時間帯に掛けてくる彼の友達に心当たりもない。
 荒木麻耶──咄嗟にその名前が浮かんだ。
 ガードを固めていたとはいえ、第三者を通じて洋平の番号が漏洩することまでは防げない。
 彼女が何らかのつてを利用して彼の携帯に掛けてくることは、ありえない話じゃなかった。
 根拠のない不安。けれど、安易に否定もできない。
 確認するため「眼」を洋平から外し、対象をあの下級生に切り替えて走査する。
 ……いた。
 ここから二キロほど先。自宅の部屋とおぼしき一室で携帯を耳に押し当てている。
 動く唇を読み取った──「……で待っています、……先輩」(まばたき)「ええ、はい」(うなずき)「では」。
 慌てて「眼」を洋平に戻す。こっちでも通話が終わり、携帯を仕舞うところだった。
 偶然の一致、と楽観視するつもりはなかった。洋平が話していたのは荒木麻耶という可能性が高い。
 浮ついた気持ちがサーッと潮を引いていった。代わりに、臓腑を焼く憎悪が満ちていく。
 忘れもしない。
 忘れるものか。
 あの日に視た、人生最大の悪夢を──


 絡み合って蠢く半裸の男女。
 何度も盗み見たことのある洋平のしなやかな体と、押し潰されてしまいそうに小さくて細い女の体。乱れた衣服の隙間から覗く白い肌。洋平の、少しだけ焼けた肌と対比して目立つきめ細かな肌の色。
 そのあまりの白さに、気が狂いそうになる。
 洋平の息が荒い。音のない世界なのに、彼の息遣いが今にも耳元で聞こえてきそうだ。熱い吐息さえ、ありありと想像することができる。いつもなら興奮を覚えるところだけど、このときばかりは違う。
 彼の呼吸が、関心が、性欲が、そのすべてがわたしとは無関係の対象──組み敷かれた小柄な少女に向けられているものだと、分かりきっていたから。
 全身の血が凍りついて流れるのをやめた。
「   」
 金髪と碧眼に彩られた綺麗な顔が痛々しげに歪む。開け放たれた口から漏れるのはあえかな悲鳴だろうか。
 けれど、その表情は決して醜いわけではなくて。本来ならわたしが先に受け取るべきだった苦痛を享受し、肉体を超克した歓喜で頭のどこかが痺れたような、官能的で憎々しい美しさを湛えていた。
 服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿で汗を流しながら彼女の体を貪る洋平。
 彼がそれまで一度も排泄と自慰以外の用途で使っていなかった、わたしがまだ触れたこともなかった器官を夢中で出し入れしている。必死の形相。きっと、わたしのことなんて一ミリも考えていないだろう顔つきで、幼い肢体を味わい尽くすことにばかり専念している。
 世界はふたりで完結していた。傍観しているわたしは蚊帳の外。何の意味も持たない。
 やめて。
 そんなの、間違っている。
 洋平がそういうことをしていいのはわたしだけなんだよ。
 その子なんかで気持ちよくならないで。
 叫びは届かない。性行為と呼ぶにはあまりに荒々しく一方的な陵辱を、ずっと想いを寄せていた幼馴染みの男の子が他の娘を相手に延々と繰り広げている。ただただそれを視せられるだけ。
 拷問だった。
 何より、「眼」を離せないでいるわたしの本心が、わたし自身を強く痛めつけていた。
 視たくないのに。「眼」を逸らしたいのに。
 ──視ずにはいられない。
 そして、洋平の腰の動きが早くなって、口の端から涎をこぼしながら呻くような顔をしたとき。
 オートフォーカス──「眼」が、ふたりの結合の奥深くにまで向かって。
 洋平の先っぽから噴き出した白濁の液体が。
 狭い膣の中で溢れ返って渦を巻き。
 彼女の──荒木麻耶のおぞましい子宮へと流れ込んでいく一部始終を。
 あますところなく捉えた。
 何度も何度も。間歇的に噴き上がる精液が、彼自身によってぐちゃぐちゃに攪拌される。
 血や透明な愛液と混ざり合って、粘りながら別の色に染まる。
 ミキサーの内部みたいな情景。
 その間も刻々と、子宮には洋平の精子が飛び込んでいって──

 もう何もかも手遅れだと、わたしは夢の中で絶望しきった。

 起きてしばらくは本当に夢だと思った。あくまで「嫌な夢だったなぁ」と引き攣った笑いで流そうとした。
 洋平の部屋に「眼」を遣って、朝を迎えたというのに裸のまま動物みたいに性交を続けているふたりを確認したとき、現実ってことを悟った。
 ──初めてではない。寝てる間に勝手に「眼」が動作したことはあった。
 わたしは食べている最中だった朝食を吐瀉し、「どうしたの!?」と狼狽する父と母に応答することもできなくて、くぐもった呻きを漏らしながらフローリングに倒れ込み、ガクガクと震え出した。
 「眼」は彼と雌狐の絡まり合いに釘付けのまま。
 ちょうど、洋平が性器を口から引き抜いて、擦り上げつつ平らな胸に射精するところだった。


 休日は地獄に変貌してしまった。ベッドに伏せったまま起き上がれなくなったわたしは、理性が「やめて」と叫ぶのにも構わず、洋平の姿を視ては、飽くことなく荒木麻耶との淫猥な遊びに耽る様を目撃して悲鳴を挙げた。
 昼になっても食べ物は喉を通らない。お茶やスポーツドリンクを飲んでも、吐き出してしまう。
 ほんの数時間でげっそりと衰弱してしまったわたしを心配して両親は病院へ連れて行こうとしたが、無駄だと思ったので拒否した。どこにいても、わたしの「眼」は距離を無にする。自宅を離れて治療を受けたところで、洋平とあの女が睦み合っている進行形の現実から「眼」を逸らすことはできない。
 わたしは、「眼」を神様が贈ってくれた特別な能力だと思っていた。他の誰にも視えない世界をわたしにだけ視せてくれる、ステキな望遠鏡だと。
 既に能力なんかではなくなっていた。麻薬だ。どんなに「視たくない」と思っても、視ないでいると、別種の不安に駆られる。目が泳ぎ、落ち着かなくなる。「洋平を視る」ことはわたしにとって生活の一部。あの女がそれを台無しにしてしまってからも、変わることはない。
 痒みにも似た感覚。引っ掻けば痛いと分かっているのに、痒みを殺すために爪を立ててしまう。視れば視るほど傷つくのに、わたしは洋平たちの淫らなまぐわいを監視して一向にやめなかった。
 殺してやる──洋平が精を吐き出し、あの女がそこを口に含み、すっかり体が繋がり合った男女ならではの爛れた笑みを交わすたび、血を噴く思いで殺意を抱いた。でも衰弱は激しく、体がベッドに張り付いた状態。這って進んでも階段にさえ辿り着くことができなかった。
 ベッドから抜け出して床に這うわたしを見つけた母は「安静にしていなさい」と抱き起こし、それでも這い出そうとするわたしを見下ろして溜息をついた。
 往診の医師が来た頃には夕方が近くなっていて、さすがに洋平たちふたりも疲れたらしく、交尾は小休止になっていた。わたしの体調も少しずつ回復し始めたが、彼らが体を触れ合わせてイチャイチャする場面を覗くたび、はらわたの千切れる心地がした。
 自分が生きている気がしなくて、どっかの地獄に落ちた後なんだと、本気で思うようになっていた。
 夕食も満足に摂れなかった。排泄はおしめにしたけど、それを恥ずかしいと感じる余裕もなくなってた。
 夜。ふたたび夢の中で隣家の様子を視た。
 惑乱とともに目を覚まして喉を張り上げたが、悲鳴は涸れていた。

 包丁を持って押し入る気力も、自殺する気力も湧かないまま朝が来た。
 当然、学校は休むことになった。ベッドに伏せり、目を閉じて考えた。
 いいのかな。
 このままでいいのかな。
 このまま終わっていいのかな──胡桃。
 沈黙と瞑目。内なる問いに答えが訪れるのを待った。どんなにたっても諦念の思いは湧いてこなかった。目蓋を上げるのも苦労するくらいの疲労に身を委ねながら、わたしはまだ諦めていなかった。
 両親の留守を狙ってベッドから抜け出し、芋虫のように匍匐前進してキッチンへ向かった。冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを出し、ぬるくなるまで放置してから飲んだ。
 吐いた。構わず飲んだ。また吐いた。それでも飲んだ。
 負けるものか。
 苔となってこびりつく小さな気力が、どうにかカロリーの摂取を可能にした。
 床が汚れるのも構わず、とにかく食べられそうなものを選んではガツガツと貪り、かつ飲んだ。
 負けるものか。
 たとえ手遅れになったしても。わたしは諦めない──!
 気が付けば疲労を感じなくなっていた。
 憎悪がショックを上回ったのか。ほんの数時間で衰弱に陥ったわたしは、それよりも短く、たった一瞬で甦った。
 本当に黄泉の国から帰還を果たした気分だった。それまでが嘘みたいにすっくと立ち上がり、てきぱきと自分が汚したところを掃除すると浴室へ向かった。シャワーを浴び、丸一日分の汗を熱い湯で流した。
 どんなに浴びても、憎悪ばかりは洗い流せなかった。
 雌狐への恨みは胸奥で沸騰し、お湯よりも熱く滾っていた。



(Act.16へ)
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by sikaisen | 2007-04-15 18:56

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