泥(なずみ)


「沃野」(Act.18)

「綾瀬、胡桃……」
 連想される一つの名前。
 無意識のうちに呟いていたその言葉を、呼びかけと思ったのでしょうか。
 彫刻刀の持ち主──床に伏し、私のかかとを刃先でえぐり抜いた人物が顔を上げました。
「…………!」
 息を呑みました。
 顔、と言ってもその容貌を確認するのは困難です。何せ、目のあたりを覆うように包帯が巻かれ、しかも微かに血が滲み、黒ずんでいるんです。
 その部分のインパクトが強すぎて、他の鼻や口といったパーツの印象が頭に届いてこない。地に引きずる髪と、真新しいのに血で汚れている目隠し包帯。二つばかりが強調されてしまう。
 ライトを顔からずらし、体の方を見てみます。
 破かれた衣服と包帯、それにギプス。左手と右足は損傷がひどいようで、かなりきつく固定されてます。あれでは、きっと少しも動かないでしょう。
 ずりっ、と彼女──性別が女性であることは胸の膨らみから推測できます──が這い進みました。生きている右肘と左膝だけで、器用ににじり寄ってくる。
 芋虫、いえ……なめくじと呼んだ方が適切。奇妙な滑らかさがその動きにはありました。
 服と床が土で汚れており、よほどの摩擦を味わったのか、肘の包帯は擦り切れています。
 破れ目から覗く、ささくれた肉。じくじくと湧き出す血。
 長かったであろう道のりを、ずっとこの体勢で這ってきた──?
 決して速くはないスピードで、しかし、休みなく。
 真実であれば、およそ人間とは思えない執念です。
 彼女にとって壁面に等しい地面を、フリークライミングに挑むかの如く突破してきたのですから。
 じり……
 硬直して座り込んでいる私の方へ体を寄せ、距離を詰めてきました。
 私は驚愕と、少しでも動かせば激烈な痛みが走るかかとの負傷のせいで満足に後退することもできません。
 ただ呆然と女に光を当てているだけ。
 完全に固まっていました。コチコチの氷像です。
 女は、目に包帯をしているというのに、恐怖に怯える私をじぃ~っと覗き込むように静止して。
 にたり
 と。唇を歪め、厭らしい笑みを張りつかせました。
 全神経が瞬時にわななきました。
「お……」
 ぜいぜいと荒ぶる呼吸。肌の下を巡る血は今にも冷え切って心臓を止めてしまいそう。
「おばけ……」


 小さい頃、親の前では強がって「怖くなんてありません!」と強弁したけれど、実は大の苦手で夜はトイレに行きたくなくて、でもどうしようもなくて行くことになって、廊下の暗がりに潜んでいるのではないかと何度も何度も小刻みに振り返っては指差し確認し、いないことに安堵を覚えた存在。
 それが手の届く場所まで迫っていました。
 正味な話、失禁してしまいそうです。というか、ちょびっと漏れてます。気色の悪い温もりです。
 バンッ
 突然、不気味な物音が響いて、おばけの体がぐうんと膨らんで大きくなりました。
「ぅぁ……!?」
 すぐに錯覚と悟ります。
 なんということでしょうか──
 彼女は、地面の反動を利用して勢い良く立ち上がっていたのです。
 片手と片足だけで……ありえない!
 否定しますが、現実として眼前に直立する存在を打ち消すことはできません。
 それでも右足が動かせないことに変わりはなく、ぐらっと姿勢を崩して倒れ掛かってきます。
 びょう、と風音。
 彼女の脇から疾駆するモノが懐中電灯の光を跳ね返しました。
 ──彫刻刀!
 まさか。
 そいつを振り下ろすためにッ!
 姿勢が崩れると分かっていながら立ち上がったんですかッ!
 目が吸い込まれる。
 軌道は大きな弧を描いて首筋に……!
「ひぃっ!」
 情けない悲鳴を挙げながら体を捻り、手に持った懐中電灯をスイング。
 ガキィンッ
 寸分違わず彫刻刀の刃先と懐中電灯のへりが激突し、闇に火花を散らす。
 軌道はねじ曲がり、あらぬ方へ逸れていきます。
 辛くも防ぎました。
 ふ、ふふ。
 怯えちゃあいますがね……こちとら、動体視力には自信があるんですよ……!
 チビだからってあんまり舐めないでいただきたい!
 その直後、脇でだあんと物凄い音とともに女の体が床に叩きつけられます。着地のことなんてろくに考えていなかったであろう、聞いてるだけでこっちも痛くなってくる肉撲音でした。
 が、油断している暇はありません。
 女は転倒も意に介さず得物を振り回し、刺突と斬撃を繰り返します。片腕一本なのに、一つ一つがやけに重い。こっちは必死になって懐中電灯をぶつけ、危なっかしくガードを試みます。
 咲き乱れる火花。響き渡る金属音。
 ──押し寄せる殺意!
 少しでも隙を見せれば、喉笛に喰らいつかれることは自明。
「くっ……!」
 反撃する余裕もなく、防戦一方。
 一合、二合、三合……打ち合いも十合を超えるとこちらは手が痺れてきて、緊張のせいか息も乱れてきました。相手は少しも疲れた様子がなく、むしろ何かに憑かれた様子でしぶとく攻撃を継続してきます。
 終わりのない攻防。スタミナは、血に飢えた幽鬼と化したあっちに分があるようです。
 徐々に押されてきました。
 いくら動体視力が良くたってここは暗い。
 おまけに唯一の明かりである懐中電灯も武器に使わなくちゃいけません。
 はっきり言って条件はかなり厳しいです。まっこと不利です。このまま膠着していてもジリ貧でしょう。


 少しずつ、痛みに耐えながら後退を開始します。蟻よりものろい歩みで、しかし着実に。
 充分に間合いを取ったところで、懐中電灯の蓋を外して電池を排出。
 単三が二つ。滑り落ちてきたところをぱしっ、ぱしっと空中で掴み取りました。
「えいっえいっ!」
 手首のスナップを利かせて投げつけます。弾かれもせず顔面にボコ、ボコと当たりました。
 大したダメージにはならないでしょうが、足止めにはなったはず。
 背を向け、負傷した片足を引きずりながら離脱しました。ずり、ずり、と後から追ってくる這いずり音が聞こえましたけど、決して振り返らず、可及的速やかに逃げ出します。
 見慣れている廊下──目を瞑っても行き来できるはずの空間。
 今は闇以上の質量を有した不安で暗く重く閉ざされています。
 やけに長く感じられました。
 どんなに目を見開いて先方を睨み据えても、果てには届きません。
 怖ろしく遠い。歩みを止めたくなります。
 ……でも、進まなきゃ。泣き言は無用です。
 麻耶。あなたは益体もなく怯えて身を竦め、運命の判決に委ねるほど意志薄弱な子ではないでしょう。
 今はただ、動く足と、動かない足と、凭れ掛けた肩と、壁を探る手をよすがに逃げなさい。
 仮借なき怨嗟が牙を突き立て、この足を縫い止める前に。
 追いつかれたら、終わりです。死神はすぐそこまでやってきていますよ!
「はっ、はっ、はっ……」
 包帯を巻き、彫刻刀で武装した髪の長いおばけみたいな女──正体は綾瀬胡桃。他には考えられません。
 あなた、死んだんじゃなかったんですか。トラックに撥ねられて、まだ生きてるなんて。そのうえ満身創痍でここまでやってくるなんて。訪ねたこともない、私の家に。
 目も見えないだろうに……洋平先輩の臭跡でも追ってきたんですか。
 ああ、なんという人でしょう。
 侮っていました。見誤っていました。
 犬は犬でも、彼女はただの牝犬ではありません。
 吠え声一つなく忍び寄る猟犬──!
「んぎっ!?」
 かかとに激痛。思わず振り返ると、引きずっていた足の傷口に刃が埋まっていました。
 予想以上に接近されていたようです。
 慌てて引こうとしたところをぐりっ、と刃先でえぐられ、一瞬意識がショートします。
「が……っ!」
 倒れそうになる体を支えるのに、すべての意志を投入。ギリギリで持ちこたえます。
「っは……!」
 更に攻撃を加えようとする女の顔に向け、電池がなくなって用済みになっていた電灯本体を苦し紛れで
投げつけます。ボコンッ。これでまた足止め。速度を上げて、前進を再開しました。
 しかし、すぐに差を埋められて追いつかれることは目に見えています。
 泣きたくなりました。怖い。痛みが怖い。捕まるのが怖い。殺されるのが怖い。
「ぐ、うう」
 えづく。大声で先輩を呼んで助けを求めたくなりました。
 すうっと深呼吸して、実行に移そうとします。


「………………」
 でも、やめました。
 声が出なかったからではありません。
 ここで叫べば、私の動きは鈍くなる。その間に追いつかれて、先輩が来た頃には既に手遅れになっているでしょう。
と、なけなしの理性で計算したこともありますが。
 何より、私は。
 守られるために依存したわけじゃない。
 惨めに泣き叫んで救助を待つなんて、そんなの柄じゃありません。
 本当は強くなんかなくて、ただの強がりでしかないけれど。
 強がるべき正念場は心得ています。
 直接的な助けなんてなくてもいい。
 先輩の存在が心の支えになってくれれば、それでいいです。
 私の依存は信仰であり、信念なんですから。
 彼のことを想う。それだけで力が湧いてきます。他に何が必要なものですか。
 ──いいでしょう、綾瀬胡桃。
 土は土に、灰は灰に、塵は塵に。
 死者は棺に送り返して差し上げます。
 二度とよみがえることがないよう、きっちり屠殺してやりましょう。
 具体的には首を斬り落としたりとか。大変そうだけど頑張ります。ファイト、麻耶。
 こっちとて、もうおばけを怖がる歳ではありません。手を汚すのがイヤとか、甘っちょろい発言もやめ。事後、先輩には死体の始末だけ手伝ってもらいましょうか。レイプ魔の幼馴染み、その残骸を廃棄したところで彼の良心も痛まないはず。
 あるべきものをあるべきところへ還すだけです。
 タカを括らないでくださいね。私って、殺ればできる子ですよ。
 さあ──首輪のないあなたに、地獄へ繋ぐ絞首の荒縄をプレゼントしようではないですか。
 熨斗紙つけてあの世へ返送してあげることを慈悲と思ってください。

 狂犬、死すべし!

 反撃の意志をかざし、向かう先はキッチン。
 得物を調達するとします。素手じゃあ、勝てません。
「はあっ、はあっ……ふうっ……はあっ……」
 えっちらおっちら、青息吐息で進みに進んで。
 どうにか辿り着いたキッチンの流し台の下、包丁と一緒に予備の懐中電灯をゲットしました。
 暗闇にはまだ目が慣れていません。これで照らしながら、まずは彼女の急所をブスリ。速攻で片付けてやります。
 ガス台にしがみつきながら点灯し、襲来に備えます。
 なぜか敵の足取りは重くなったようで、気配が遠くなってます。
 おや。先程の小競り合いで疲弊して遅れましたか? 
 ふむん、いくらおばけじみているとはいえ、まだ人間としての名残りはある模様。
 勝てる。それなら、勝てます。
 さあどんどん近づいてくるがいいですよ。こちらの迎撃態勢は整いました。
 ふふふ、ビッチさん。あなたを刺し殺して冥府に逝かせてあげます。
 そして、そこで出会った番犬と、
「仲良く並んで……狛犬になっていただきたい!」
 好戦気分を盛り上げて。
 振り向こうとした、そのとき。


 ──キリ

 キリキリキリ……

 背後から奇怪な軋りが聞こえてきました。
 ええ? 今度は何ですか?
 内心嫌なものを感じますが、無視するわけにもいきません。
 意を決して振り返ります。
「は?」
 その光景が飛び込んでくるや、真っ先に目を疑いました。
 だって、あの女の手にはさっきまであった彫刻刀がどこにもなくて。
 代わりに、変なものが出現していたんです。
 ギプスが巻かれていない、自由に可動する右手で保持されているそれの外観は、一言で表せば小型の弓。クロスボウみたいに横に寝かせています。綾瀬胡桃は弦を口に咥え、頭を目一杯後ろにのけぞらせて引っ張り、さっき耳にした軋り音を響かせていました。
 のけぞったせいで晒された喉──ひどく白い。噛み締められた歯も、皓々と光を弾く。
 キリ……リッ!
 口は弓弦の他に矢筈も咥えています。既に弓は番えられた後──
 そう。まるで嘘みたいな話ですが。
 まさかの飛び道具がぴったりこちらを狙っていました。 
 さっき私が投げた電池や懐中電灯とは比べ物にならない、それはもう本格的な一品で。
 彼女が遅れたのは疲労のせいじゃなく、あれをセッティングするためだった。
 たぶんそれが正解。
 ちょっ、あんなの、どこに隠し持っていたんですか!?
 ってか、あれでまともに射てるんですの!?
 噴き出す疑問へ向けて繰り出される返答は、無言の一撃。
 電光石火。弦が奏でるキィンと高い音に追随して、飛来する矢はひと筋の影に変わります。
 いくら動体視力が良くたって、よけられやしません。
「うぐっ!」
 倒れそうになるような衝撃と一緒に肩へ異物が突き刺さります。信じられない不快感と、僅かに遅れてやってきた激痛。自分の体に、余分なモノが入り込んでいる。疑いようもない事実。
 それは破瓜の経験とは比べ物にならない、気が狂うばかりのショックでした。
 もはや声も出ません。パクパクと口を開けたり閉めたりしながら脂汗を流します。
 肩口から突き出している矢を覗き、猛烈に抜き去りたい衝動が込み上げてきました。しかし、抜くときの痛みと抜いた後に広がる傷を想像すると手を伸ばす気がしません。
 思考の板挟み──吐き気と寒気が荒れ狂う。
 怖じ惑う私の姿が愉快なのか、綾瀬胡桃はにたにたと例の厭らしい笑みを振り撒きます。そして第二矢を咥え、ゆっくりと番える。キリキリキリ。
 に、逃げなきゃ……
 でも。
 私と彼女の間には何の障害物もなく、片足が荷物になってる私に俊敏な動作はできない。逃げ場所がありません。
 じゃあ体を丸めて急所を守る? そうしたところで嬲り殺しに遭うだけと分かっていながら?
 にっちもさっちも行かない窮地。打つ手なしで、立ち竦みます。
 死ぬしか、ないんでしょうか。絶望に心が黒く染まっていく。
 ──心のみならず、視界さえも端からじわじわと蚕食されていきます。
 あ……う……なんだか……とても眠いです。
 かかとの出血がいよいよヤバくなったんでしょうか。睡魔まで敵に回るだなんて、踏んだり蹴ったりです。
 頭を振って眠気を払おうとしますがダメです。振り払えません。どんどん思考がぼんやりしていく一方。目蓋が自然と下り、首を支える力も抜けていきます。立ったままで寝てしまいそう。
「こんな……ときに……ダメ……」
 言い聞かせる自分の声さえも遠く。
「寝ちゃ……寝ちゃったらおしまいよ……麻耶……」
 意識は緩やかに下降して夢の世界へ沈んでいきます。
 夢の世界。
 そう──予知夢の世界へ没入し。
 因果を跳躍した極彩色の光が乱舞する万華鏡を覗き込んで。

 私は、視た。


「ぁ、」
 喉を振り絞る。
「あああ、」
 精一杯、腹の底から掻き集めた声で。
「──ふあああああああっ!!」
 獅子吼する。
 迷わない。すかさず自分の太腿を切りつけた。
 溢れ出る血潮──鮮烈な痛みが意識を引き揚げる。
 強引な覚醒法だけど。まとわりつく睡魔は粉砕できました。
 現実の世界では、今まさに矢が放たれようとしていたところ。
 ……させません。
 カッと内臓で憤怒の炎が燃え上がる。
 ふざけるなです。牝犬の分際でいい気にならないでくださいよ。
 あなたにこの命、差し上げるつもりはありません。
 すべてを捧げると誓った身は先輩のもの、なればこそ──
 私を殺していいのは、先輩だけなんですから!
 揺るがせぬ依存の掟……生殺与奪するは彼にあり。
 それを履き違えることなかれですよ、
「──野良ゾンビがッ!」
 なけなしの気力を薪にして、くべます。炎立つ瞋恚に。
 揺らめいて広がる蜃気楼──気化した殺意が飽くことなく膨張する。
 息苦しい。この小さな体を破裂させる勢いで高まる憎悪の圧力。
 吐気。抑止を緩め、激情を解き放つ。
「けああッ!!」
 握り締めた包丁を力の限り投擲しようと踏ん張っ

 たところで床をびしゃびしゃに濡らしていた血液に足を取られてつるっと滑りました。

「──あれ?」
 傾ぐ視界。包丁は手からすっぽ抜けてしまいます。
 綾瀬胡桃が射った矢は腕をかすめるように、体のすぐそばを通過して後方へ飛び去ります。
 がしゃんと何かが割れる音。食器でしょうか。
 私は血溜まりへダイブする形で倒れ込み、盛大に血飛沫を巻き上げました。
 まだ温かい己の血。そいつを浴びながら。
 転倒を恥じず、勝利を確信する。
 すっぽ抜けた包丁が天井に激突し、跳ね返ってまっさかさまに落下して、死に損ないの牝犬の背中へ吸い込まれていく……その一部始終を、ばっちり両目に捉えます。
 矢を射った直後の硬直に加え、死角からの一撃とあって、牝犬に回避できる道理はありません。深々と、ってほどでもないんですが。まあそう浅くはない程度に包丁の先端が突き刺さりました。
 さっき私が予知夢で視た通りに。
 未来からの刺突──出せば当たる、回避不能の一撃。
 ふふ、別に「こういう角度で投げたらうまい具合に反射して当たる」とか、そういうことを計算したわけじゃありませんよ。ただ、すべてを燃焼させる気迫で対抗すれば矢もよけられて包丁も刺さるという、なんだか大昔の根性論みたいな因果関係がこの状況でたまたま成立していることが分かっただけです。
 なんでもかんでも先のことはお見通しっていうこともないんですけれど。
 まったく先が視えないあなたよりは、私の方にアドバンテージがありましたね。
 綾瀬胡桃は一つ大きく痙攣したのち、事切れたのか、弓を取り落として動かなくなりました。
 それを満足そうに眺めてやる私。
 ふっ……勝利!
 これは是非とも賞賛の言葉を賜りたいものです。「よくやったぞ、麻耶! でかしたな!」ってね。そしてなでなでしてもらうのです。頭を、こう、髪がくしゃくしゃになるくらい。
 うーん、わくわくしますね。
 牝犬退治は無事終了。明日からは先輩とのんびり死体損壊遺棄の共犯生活を送りましょう!


 ──なんて明るい未来図を思い描いたりしますが。
 残念なことに私も力尽きてしまったようで。
 ぐっとおなかに気合を込めても、うまく起き上がれないです。
 指先一つピクリとも動きやしません。いえ、それは誇張で、動くことには動きますが、どっこいしょと立ち上がってスタスタと愛しの先輩の元まで赴き、その懐へ飛び込むなんてことは不可能でしょう。
 どうやら勝利ではなく、相打ちだったみたいです。
 ああ、なんだ。結局、私たちの戦いに勝者なんかいなかったんですね。
 二人の敗兵がここに転がっているだけ。
 共倒れ──いかなる実も結ばなかった、恋愛局地戦のなれの果て。
 みじめですねぇ。
 とりあえず自嘲で、孤独に死にゆこうとする自分の魂を慰めてみます。
 でも、やっぱり、無理。目尻が熱くなって、涙が滲むのを止められません。
 ああ、寒い。なんでこんなに寒いんでしょう。夜とはいえ、今は夏なんですよ。
 血液。涙。体温。そして魂さえもが、私からこぼれ落ちていく。
 昨日まではどこへでも続くと無条件に信じていた道に。
 大きな大きなシャッターが下りてきます。
 待ち受けるのは、あそこに転がっている女と同等の未来。
 もうどこにも行けないのに、ここに留まることすら許されません。
 係留なき五体──繋ぎ止めるものを失った私たちに、明日はない。
 淋しいなぁ。
 淋しいですよ、先輩。
 胸が締めつけられる。助かりたい。まだまだ一緒に生きたい。
 もしそれが叶わないというなら。
 せめて、最期くらいは看取ってほしい──

 霞む意識の中でそう願いました。



(Act.19へ)
[PR]
by sikaisen | 2007-04-16 20:03

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