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泥(なずみ)


「沃野」(Act.19)

 いつまで経っても麻耶が帰ってこない。
 闇の中に取り残されて待っていると、ひどく不安を掻き立てられた。
 静か過ぎて耳鳴りがする。時折、それを遮るように階下から物音が聞こえてきたような……そんな気もする。
 しばらくは麻耶を信じておとなしくしていたが、さすがに我慢の限界が来た。
「麻耶? どうしたんだ?」
 一段一段、壁を手探りして下りながら呼びかける。返事はない。
「麻耶?」
 停電、ということで玄関近く、分電盤のあったところまで行ってみたが、彼女の姿はない。代わりになんだかムッと異臭がする。鼻孔と肺を冒す不快感。なんだろう、この匂いは。
「あれ?」
 闇に慣れてきた目で見上げると、ブレーカーが落ちていることに気づいた。
 指先で起こす――周囲が光を取り戻す。
 同時に、異臭の正体を知った。
「えっ……血?」
 黒ずみ、半ば渇きかけた血液が床に広がっていた。床はなぜか泥で汚れていて、血を拭うように何かが引きずられていった跡が残っている。中途になぜか電池が転がっていて、ますます謎めいてきた。
 引きずりかすれた跡を辿っていく。何があったんだろう。麻耶は無事なのか。心配になりながら歩を進める。
「──麻耶!?」
 そして遂に彼女を見つけた。彼女はシンクの下で、倒れ伏していた。半身が血だらけになっている。近寄ろうとしたとき、部屋の中に包帯とギプスをまとった女性がいてギョッとした。背中に包丁が突き刺さっている。
 麻耶の方を見ると、肩に矢が刺さっていた。
 なんなんだ? まるで突如現われた暴漢がふたりを襲って立ち去っていったような現場だが、包丁はともかく矢とはどういう了見だ。そもそも女性の方は襲われる前から負傷して治療を受けていたみたいだし……
 名探偵みたくパッとひと目で状況を分析することはできず、無様にうろたえた。何をすればいいのか分からず途方に暮れかけたが、麻耶が呻き声を挙げたのでひとまず女性を放って駆け寄った。
 麻耶の顔は蒼白で、ただでさえ白い肌が紙のような色になっていた。
 それは「死相」という言葉を思わせた。
「せん……ぱ……い……」
 言葉を紡ぐどころか、呼吸をするのも億劫といった風情だ。
 抱き起こすわけにも行かず、屈み込む。
「どうした!? 大丈夫か!?」
 混乱しすぎて、すぐには「救急車を呼ぶ」という発想が浮かばなかった。三十秒くらいずっと彼女の名前を連呼し、意味のない繰言を続け、ようやく通報しなければならないことに思い至った。
 なぜか携帯がなくなっていたので荒木家の固定電話を使い、しどろもどろで119に掛け現状を説明した。
 この家の住人と、もう一人、身元不明の女性が怪我をしていて死にかけていること。説明は要領を得ず、やたらと無駄な言葉を費やしてしまったが、なんとか通報を終えた。
 部屋に戻ってきて、麻耶の傍らに腰を下ろす。
 ふと顔を上げて、さっき「身元不明」と言った女性をまじまじと見詰める。動揺のせいで気づかなかったが、見れば見るほど、やけに記憶を刺激するところがあった。
 腰まで届く、長い髪──
 見慣れた感じのする体型──
 包帯で隠れていて目元が見えないが、見覚えのある顔──
「まさか──胡桃?」
 呆然と立ち竦んだ。彼女とはほんの数時間前に別れたばかりだ。あのときは妙に鬼気迫るところがあったとはいえ、怪我ひとつなく肉体的には元気そうだった。それが、こんなふうに「重傷者」って感じの姿になるなんて。
 違う……これは胡桃に似た誰かだ。そう、彼女であるはずがない。
 目の錯覚だ。
 今は麻耶の方を先に助けないと。
 でも、もしあれが本当に胡桃だったら──詳しく確認しようと腰を上げた。
 ぐっ。弱々しい力で袖を握られる。麻耶が縋るような目をしていた。
「せんぱい、おねがいです、そばに……いてください」
 懇願される。赤い蔦が足に絡みつく。確認は諦め、彼女の方を先決にした。
 まず止血をしないと。保健の授業で受けた救急措置を必死に思い出そうとする。
「……ろして」
「え?」
 慣れない作業に手間取っていると、聞き取りづらい小さな声がした。
 麻耶は繰り返すように、ゆっくり発音する。

「ころしてください」


「な……!?」
 手が止まった。
「どうせたすかりません」
「バ、バカ言うな!」
「どうせなら……せんぱいのてで……」
「助かる、絶対に助かるって!」
 医療に関しては素人だから言葉ほどに確信はない。俺自身、麻耶はこのまま息を引き取ってしまうのではないかという不安に駆られていた。しかし、その考えを否定し、本人を励まさなきゃならないと理性で判断した。
 しかし、麻耶は一向に安心する様子がなく、苦しげに「ころしてください」と言い募る。
「いたいんです……くるしいんです……はやくしなせてください……」
 かすれる声に哀願の響き。胸が潰れる思いだった。蔦は足と言わず手と言わず、全身に次々と巻きついてくる。
「せんぱいのてにかかってしねるなら……」
 その隠喩は、彼女から噴き出した血が俺へ流れ込もうとするかのよう。
 無意識のうちに眼球が動き、肩に刺さっている矢を直視していた。
 恐らくこれを抜けば、堰き止められていた血がどっと溢れて、速やかに麻耶は絶命する。
 仮に。
 抜かずに残していたとして、彼女が生き残る可能性はいったいどれくらいなんだろうか。
「ほんもう……です」
 高瀬舟。国語の教科書で読んだ小説が脳裡によぎる。打ち消そうとする。が、息も絶え絶えな麻耶は逃避を許さず、哀願を突きつけてくる。蔦は際限なく彼女の体から這い出してくる。
 赤い、血よりも鮮やかな蔦の葉。
「せんぱいにあえて、ほんとうにしあわせでした」
 それを美しいと。
「こくはく、うまくいって、うれしかったです」
 死に瀕している麻耶よりも美しいと。
「おべんとうも、たべてもらえて、うれしかった」
 何物にも代えがたく、他の何かを犠牲にしてもいいと。
「えっちは、もっとしたかったですね」
 彼女を安楽死させれば、朽ちさせることなく保てるんじゃないかって。
「でも、まんぞくしています」
 思っている俺は、壊れているのだろうか。
 果たして。
 俺が魅せられたのは麻耶だろうか。
 それとも──彼女の蔦か。
 分からない。
 分かりたくなかった。
 吐き気を催すばかりの頭痛に襲われ、こめかみを拳で揉んだ。痛みは少しも治まらない。
 思考を放棄したくなる。何も決断したくない。
 このまま、隠喩も時間も思考も、すべてを止めてしまうことができればいいのに。
 けど。刻々と、彼女の体から命が抜け出していく。
「もう、喋るな」
 押し留めても、麻耶は聞かなかった。
 言葉が紡がれる。



──せんぱい

みじかかったけど

ありがとうございました

めいわくもおかけしましたけど

あやまるより、かんしゃしたいです

だって

うつくしい、こいをしりました

はなのような、こい

からをすてさったわたしでも

きれいに、さきほこれましたよ

きれいに……きれいに

えへ

うれしかった

たのしかった

だから

こうかいしていません

むねをはって

はれるほどの、むねじゃありませんが

それでも、じしんをこめて、いいたい

……せんぱい



あなたが──わたしのよくやでした




(Act.20へ)
by sikaisen | 2007-04-16 21:08

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