泥(なずみ)


「沃野」(Act.20)

「おにいちゃんなんか、大っ嫌い!!」
 幼い少女の叫びが公園にこだまする。砂場で遊んでいる子供たちと、ベンチに座ってお喋りに耽っていた大人たちが一斉に視線を向けてくる。
 少女は気にしない。
 顔を真っ赤にして、キッと前方を睨んでいる。
 睨まれている少年は竦みもせず、やんわりと受け流して笑った。
「あのな、桃花。それは嘘だよ」
「う、嘘じゃないよ! ほ、本当に大っ嫌い……だもん!」
「嘘だって。本当に大っ嫌いならさ、面と向かってそんなこと言わないだろ」
 ぽんぽんと気安げに肩を叩き、優しく頭を撫でる。
「おまえさ、本当は俺のこと好きなんだろ?」
「……好きじゃないもん」
 否定しながら、少女に先ほどの勢いはない。俯き、拗ねた口振りになっている。足元の土を蹴っている。
「じゃあ、ミホちゃんと遊んだだけでなんでそんなに怒るんだ? 嫌いなら、いちいち気にしないだろ?」
「ミホちゃんとふたりっきりで遊んでるおにいちゃんなんか、嫌いだよ……大っ嫌い……大っきらぃ……」
 目尻には涙が浮かんでる。やれやれ、と少年が肩を竦めて苦笑する。
「分かった分かった、仲間外れにはしないからさ。一緒に遊ぼうぜ」
「ちがう」
「あん?」
「仲間外れだから嫌いなんじゃない……」
「じゃあ、なんだ」
「と、桃花だって、おにいちゃんとふたりきりで遊びたい……」
「んー、でも、ミホちゃんは先約でな、」
「嫌い……!」
 さっきよりも鋭さの増した目つきで睨みつける。六歳ながら、大した迫力だった。
 さすがに折れたのか、少年は「分かった」と溜息をつく。
「今日だけはおまえのわがままを聞いてやるよ」
「……本当?」
「ああ。でもこれっきりだからな。いいか、二度と同じ要求すんなよ」
 桃花はコクリと頷くが、その瞳を見る限りでは了承したふうではない。
 それが少年にも分かるのか、また溜息をついた。
「ホントに、なんつーか。桃花の嫉妬深さは異常だよ……」
「正常だもん」
「そんなのだと将来はストーカーになっちまうぞ」
「ならないもん」
「どうだか。だいたい今日だって、どうやって俺がミホちゃんと遊んでるの知ったんだよ。おまえ家で昼寝
してたはずだろ。うちの窓から公園なんて見えないし……まさか寝たフリして俺の後をつけてきたのか?」
「そんなことしないよぉ?」
 ふふ、と秘密めかして笑う。その顔は俺にとって懐かしさを誘うものだった。
 胡桃もよく、あんな感じの笑い方をした。「なんで笑うんだ」と問い詰めても答えてくれなくて、ずっと秘密を抱えたままだった。
 今となってはそれが何だったのか、確認する術もない。
 ……懐古を振り切りつつ、きゃっきゃっとじゃれ合って仲直りを始めているふたりのところへ足を向けた。
「あ、おとうさん!」
 たたたっ、と桃花が駆け寄ってくる。胸元に小さな白い花が咲いていた。無論、隠喩。しかしこんなところまで、母親によく似ている。自然と相好が崩れた。
「ただいま」
「おかえり!」
「……おかえりなさい」
 腕に飛び込む桃花をキャッチする俺とは少し離れた場所から、挨拶をする少年。態度に明確な遠慮が感じられる。
 隠喩は岩だ。視るからに硬い。まだ馴染んではくれないらしい。ちょっと寂しかった。
「海人、桃花の面倒は大変か?」
 少年──海人は「いえ、別に」と目を逸らす。頬に差す憂い。義父への距離を計りかねる難しい年頃、ってか。
 彼との微妙な距離を保ったまま家路に就く。道々、桃花は嬉しそうに今日のことを報告した。
「あのね、おにいちゃんのこと、『大っ嫌い』って言ったのは嘘だけど。『好きじゃない』って言ったのは本当だよ」
「ふうん……え? 大嫌いが嘘で好きじゃないが本当? おかしくないか、それ」
「おかしくないよ、だって、」

「おにいちゃんのこと、『好き』じゃなくて、『大好き』なんだもの」


 あの夜、絶命したかのように見えた女性はまだ息があった。
 到着した救急隊が担架で運び出し、市内の病院へ搬送された。その先で、彼女が他ならぬ俺の幼馴染み、綾瀬胡桃であることを知った。胡桃は数時間前にトラックに撥ねられ、この病院へ担ぎ込まれたらしいが、目の処置とギプス固定が終わってほんのちょっと目を離した隙に消えてしまった。容態を見れば脱走とも考えられず、「誘拐じゃないか」と随分な騒ぎになったという。
 数時間後、病院から数キロ先の後輩の自宅へ移動し、包丁で背中を刺されていたというミステリーに関係者は首を傾げた。容態もさることながら、夜とはいえそれだけの距離を行って誰にも発見されなかったというのは信じられなかった。
 彼女はトラック事故の際、目に損傷を受けて包帯を巻いていた──ろくに視界も確保できなかったろうに。
 昏睡状態は何日も続き、危ない場面も数多くあったという。やがて峠を越え、意識を取り戻すと胡桃の両親は安堵のあまり涙ぐみ、報せを聞いた俺もホッとして、なくしかけていた食欲を少しだけ回復させた。
 胡桃は意識を取り戻したものの、脳に障害が残り、言葉が使えなくなった。喋ることも書くこともできず、話しかけられても反応しない。聴覚には問題がなく、大きな音には怯え、穏やかな音楽を耳にしては安らいだ微笑みを浮かべた。
 視力は戻らなかった。
 胡桃は光を失い、誰かの補助がなければ生活することも困難になった。
 複雑骨折した手足の骨は無事に繋がった。しかし昏睡状態で衰弱し、言語障害に伴って意思の表明をあまりしなくなった胡桃のリハビリは進まなかった。ほとんどの時間をベッドで過ごした。
 植物のように静かな暮らし。それが幸福か不幸かは、余人には窺い知れなかった。
 ──あの事件。ふたりの少女が殺し合おうとした騒動はいくつかの不明点を残しながら、有耶無耶に片付けられた。誰が罪を問われるわけでもなく、訴訟沙汰になるでもなく、地方新聞の片隅に小さく載せられ、当時俺たちの通っていた高校で噂が乱れ飛び、すぐに忘れ去られた。俺は針のむしろだったが、心の真ん中にポッカリと空洞ができた気分で、どんな悪罵を掛けられ、どんな隠喩が視えても、少しも関心が湧かなかった。
 胡桃の両親は、娘が死にかけた事件の元凶が俺であると信じ、一時は絶縁されそうになった。されそうになっただけで、されなかったのは、俺が面会に行くたび胡桃がにこやかに笑うからだった。
 病室のドアを開ける前から俺の接近を察知して心持ちそわそわする。入室すると、パッと花が咲くみたいに顔をほころばせる。娘のそんな顔を見て、親御さんも俺との縁を断つに断てなかった。胡桃は暇になると、いつもぼんやりと自宅の方角や、学校の方角を眺めていたらしい。視力がないのに「眺める」というのも変だったが、そのせいか俺はいつも胡桃に監視されているような、昔と変わらない感覚を抱き続けた。
 見舞いに行って、顔を合わせるたび。胡桃の隠喩も、パッと花を咲かせた。
 ずっと以前に視た、俺たちが出会って間もない頃の花──小さく、白く、涼しげで、道路の脇にでも生えていそうな慎ましい一輪。取り戻したいと願っていた、あの花だった。
 それを視て、不思議と嬉しい気持ちは湧いてこなかった。少し落胆があった。
 失われて初めて、自分が胡桃の食虫花や食人花に忌避しながらも魅せられていたことを知った。あの毒々しい真っ赤な色合いが恋しくて、にこにこと目を細める彼女の前で涙を流したこともあった。
 笑わないでくれ。
 たとえどんなに醜く、怪物じみていて、化け物にしか視えなかったとしても。
 間違いなくあれは、胡桃が育んだ想いの集大成だった。
 七年間のすべてがあれに篭もってたんだ。
 俺に受け止める器や資格がなかったとしても、それだけは否定したくない。


 高校を卒業すると、進学の道を捨てて就職した。がむしゃらに働いているうち、年月はあっという間に過ぎた。
 俺は結婚していた。職場で知り合った、三つ上の女性。佇まいに陰りを帯びた彼女にもそれなりの事情があり、苦労を抱えていた。その苦労を少しでも分かち合いたいと思ったとき、止まりかけていた時間が動き出すのを感じた。
 海人は連れ子だ。物心もついていて、実の父親の顔を覚えていた。おかげで今になっても、母親の再婚相手となった俺には馴染んでくれない。反発するわけではなく、彼自身、事態を受け入れようともがいている節もある。隠喩も時折、夜鳴き石みたいに震える。きっと、まだ時間が必要なんだろう。
 桃花は──胡桃の子だ。入院してからの検査で妊娠が発覚した。
 言うまでもなく、俺の子だった。
 産むかどうかで揉めた。母胎が健康とは言いがたいし、本人の意思もはっきりしない。出産に伴うリスクを勘案すれば、堕ろす方がまだ安全。産むとなれば、命との引き換えになりかねない。
 それでも結局産むことになったのは、言葉を口にしなくとも、自分のおなかの中で成長していく生命を愛しげに、見えもしない目でじっと眺め下ろしている様子が彼女の意思を訴えているようだったから。
 難産だった。
 覚悟はしたつもりだったが、胸を嵐が吹き荒れた。祈ることしかできない己が呪わしかった。
 予想された通り、「命との引き換え」に終わった出産は、祝福と鎮魂の涙で濡れた。
 胡桃の名前から一字取って、桃花。俺の提案はすんなり受け入れられた。
 彼女を引き取ることに関しては「すんなり」とは行かなかったけれど。
 紆余曲折を経て、実現した。
 そんなわけで、海人と桃花は血の繋がらない兄妹だ。とはいえ別段不和もなく、たまに喧嘩しながらも仲良くやっている。義父はともかく、義妹なら打ち解けるのもやぶさかではないらしい。
 やれやれ……喜んでよいのやら。
 ま、喜べばいいか。海人も桃花も幸せに過ごしている。文句を言ったらバチが当たるだろう。
 それより。気になるのは、もう一人の子だ──
「おとうさん、今日もあの子がついてきてるよ」
 桃花が後ろをチラチラと振り返りながら囁く。
 背後を見遣る。十数メートル離れた路上に、少女はいた。
 歳は桃花と一緒くらいだろうか。緩やかに波打つ髪は黒く、容貌の整った子だ。
 眺めていてハッとさせられるのは、澄み渡った青い瞳。そこだけが日本人離れして、印象を際立たせる。
「公園にいたときから、こっちの様子を窺ってたみたいだけど」
 海人も盗み見しながら言う。
「近づこうとすると、サッと逃げちゃうんだよね」
「なんなんだろうねー」
 心底不思議そうに小首を傾げる桃花。
「あ、ああ……」
 俺は生返事をする。
 黒い髪と青い瞳を持つ少女。
 その顔立ちは、あの事件で別れを告げた金髪碧眼の少女を容易に彷彿させる。
 いや──彷彿させるというより。
 そっくり瓜二つで、面影がありすぎなのだ。


 麻耶との連絡は事件を機に途絶えた。
 結局、彼女の「殺してほしい」という懇願に従うことはできず、命を繋ぐことに望みをかけた。
 矢は抜かずにおいた。足の止血を終えたときは目を閉じ、ほとんど眠ったような状態になっていた。
 手を握って生存を祈っていると、寝言なのか奇妙なことを囁いた。
「ア………ヤ」
 ほんの一言。耳を澄ませてもあとに聞こえるのはか細い寝息だけだった。
 自宅で、娘がよく分からない厄介事に巻き込まれて死にかけたことを知った親御さんは、当然だが俺のことを快く思わなかった。何度か彼女が入院した病院に足を運んだが、一度も会わせてもらえなかった。どんなに頼み込んでも、無駄だった。彼らは俺を面罵することさえなく、徹底的に無視した。まるで俺がはじめから「いないもの」であるかのように扱って。視えた隠喩は消しゴムとか、修正液とか、そんなのだ。
 少なくとも、病院に到着した時点ではまだ生きていたはずだった。その後も乏しいツテを利用して彼女の様子を探ろうとしたが、分かるのは「死んでいない」ということだけ。やがて荒木一家は町を去り、九州のどこかへ引っ越したという情報が入った。携帯にも掛けたが、とうに解約された後。打つ手はなくなった。
 そんな状況なのに、俺がそれほど深刻に悩まなかった理由が一つだけある。
 蔦だ。彼女が巻きつかせた蔦は、別れた後も消え去ることがなかった。
 別れてなお、彼女が俺のことを強く想い続けている証拠だと思うことにした。
 が、当初は全身余すところなく絡んでいた蔦は年々減っていき、今となっては小指に残る一本のみとなった。
か細い糸だ。けれど、彼女の健在を伝えてくれるだけでもありがたい。
 ──その蔦に、いつしか実が生っていることに気づいたのは、胡桃の妊娠を告げられた時期と前後していた。葡萄みたいに房をつくり、日々の経過に合わせて育っていく果実は一つのことを予感させたが、確かめる手段はなかった。確かめるのも、怖かった。
 今、こうして遠くから俺たちのことを見詰めている少女に質問すれば、積年の疑問は解けるのかもしれない。
 けど、それをする気はしなかった。
 なぜなら。わざわざそんな行為に及ぶ必要を、認めないからだ。
「海人」
「え?」
 急に呼びかけたせいか、戸惑ったような声を返された。
「……なんですか、お義父さん」
 よそよそしい響きのする「おとうさん」に内心肩を竦めながら、頭を撫でる。
「きっと、お前たちもあの子の名前を知るときが来るだろうさ」
 間違いないだろう。少女には、有刺鉄線の如く張り巡らされた茨の列が視える。
 よほど俺に対して刺々しい感情を抱いているらしい。
 しかしガードの固さとは、内心の脆さの表れだ。
 茨で守られている少女本体はかなりの背伸びっ子で、強がりで、寂しがり屋に違いない。
 鎧や繭に縋ろうとした、彼女の母親みたいに。
「近いうちにな」
 そう、きっと遠くはない。
 海人も、桃花も、すぐに彼女の名前を心に刻むだろう。
「──サヤ」
 沙耶、とでも書くのか。
 あの夜、麻耶が残したメッセージ。「アラキサヤ」。麻耶はひとりっ子だったし、調べた限りでは親類にもその氏名はなかった。だとすれば、新たに生まれ出づる者の名前では……と推し測るようになった。あのとき、麻耶は自分の娘を夢に見ていたのかもしれない。そして、これから付けようと考えていた名を呼んだ、とか。
 証拠はない。だけど。
 茨の子の名前──運命を超えた因果の存在を感じ、俺はすっかり確信していた。
 荒木沙耶。うん、悪くはない響きだ。胸が躍り、顔がほころびそうになる。
 自制した。
 帰路を辿りながら、こっそりと思う。
 桃花と沙耶。ふたりはどんな花を咲かせるのだろう。
 綺麗な花だろうか。醜い花だろうか。
 苦味とともに終わってしまった思春期を懐かしみ、ひっそりと想う。
 子供たちと手を繋いで仰いだ空は青く、高く。
 肌を撫でる風、差し込む陽の温もり、流れる雲に心が弾んだ。
 ああ──楽しい。
 その花を向ける相手が俺でないとしても。
 俺には視えない隠喩なのだとしても。
 楽しくて、楽しくて、しょうがない。


 寄り添う桃花、隔てた場所から窺う沙耶。
 沃野に種を蒔き、実った子らの行く末に。
 どうか幸多からんことを。

 ──ようやく、俺も人を愛するって気持ちが分かったみたいだよ、胡桃、麻耶。



(了)
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by sikaisen | 2007-04-16 21:15

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