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泥(なずみ)


「沃野」(Act.16)

 ──あとは簡単だった。
 侵入経路を確保してこちらから隣家へ攻め込む案もあったけど、幸い洋平の方から足を踏み入れてくれた。
 「眼」の力で事前に察知していたわたしは手錠を持って待ち構え、入ってきた洋平の虚を衝きすかさず捕獲。ほんのちょっぴりだけお仕置きを加えて抵抗の意志を奪い、万全整ったところで彼に純潔を捧げた。
 結果としてはこっちから襲う形になってしまったが些細な問題だろう。紛うことなく、純潔は純潔なのだ。わたしの体を知ってくれた以上、もう洋平が骨と皮ばかりの貧弱な子狐に欲情することはないと思う。
 かと言って安心もできない。荒木麻耶は「二日間の退場」を約束しておきながら、図ったようにわたしが失敗した直後に洋平と接触した。嘘つきと詰るつもりはない。もともと守られる見込みの薄い約束と睨んでいた。むしろよくギリギリまで静観していられたものだと思う。
 気に掛かるのはタイミングの良さだ。なぜああも洋平に付け入る隙ができたときに限って動いたのか。
 あの夜は興奮剤の効果が持続して、ロリコンでもない限り食指の働かないあんな子にも洋平は勃起してしまった。チャンスとしては絶好だろうけれど、それを狙って仕組むのは難しい。わたしが梓から興奮剤を受け取ったという情報をキャッチしてから計画を立てたとも思えない。
 となれば。
 最初から梓とあの子がグルだったとか──?
 まさか。
 ありえない。
 自分で出した「驚愕の真相」の説得力のなさに噴き出してしまった。
 とにかく、洋平は今やこっちのもの。後は警戒を怠らないようにすればいいだけ。
 なに、わたしには「眼」がある。一時は呪いにも思えた力だけど、やっぱりわたしには掛け替えのないものだ。
 雌狐が余計な真似をしそうになってもすぐ察知できる、即座に叩き潰せばいい。
 そう思ってようやく安心を得て洋平との将来に思いを馳せた矢先の、電話。
 洋平は幾分か慌てた様子で部屋を出て、階段を下りる。そのまま玄関へ。
 なに? 外へ出るの? 貧弱狐は「待っています」とか言っていたけど、どこかで落ち合う気なの?
 わたしも慌てて外へ出る。
「待っ……!」
 制止の声を掛けようとしたけど、洋平は自転車に乗って遠ざかるところだった。
 しまった──わたしは自転車を持っていない。
 不幸中の幸いで体力には自信がある。少し遅れるだろうけど、走って追いつく自信はあった。どこで落ち合うかは聞かなかったけど、荒木麻耶がいた場所は二キロ先。待ち合わせもその近くに違いない。
 すぐにでも飛び出したかった。が、時間は十時近く。辺りはもう暗い。このへんは街灯も少ないし、懐中電灯を持って行った方がいい。
 そう思って一旦家に戻った。ばたばたと荷物を漁る。
 二分後に出た。懐中電灯はやめにして、代わりに弓を持った。肩には矢筒を回している。
 あはは……慌ててたから忘れそうになったけど、わたしには何よりも心強い「眼」があるんだ。これなら透視機能どころか暗視機能もあるし、わざわざ懐中電灯を持ち出す必要もない。定期的に周辺走査しておけば、ばったり誰かと出くわすこともなく人目を避けて移動できる。
 そして肉眼でふたりを捉えたら矢を放つ。暗中の弓射も、実は秘密の特技。「眼」を開けておけば、本来の目を閉じて射たとしても正鵠に中てられる。
 ふふ、最初は威嚇射撃にしてあげるけど……もし、ちょぉっとだけ狙いが逸れて喉笛に中たっても、それは事故なんだから……恨まないでよね、雌狐さん──
 洋平の背中を視据え、ぐっと足に力を溜めながら笑う。
 ──淑女の嗜み。いざ尋常に、フォックス・ハンティングを開始する。
 進め、進め進め。
 脳裡を巡る旋律──ラ・マルセイエーズ。
 世界史の授業で習った一節が憎悪に膨らむ頭蓋に谺する。
 洋平を取り返す。雌狐を殺す。それは、平穏と充足の田園を築くために必要な進撃だ。
 遊離した心は四足獣に変貌し、ギャロップで夜陰を疾駆する。ただ怨念だけが遥か彼方を見透かす「眼」に随行していた。
 ああ。はやく、はやく狩らなきゃ。
 マルセイエーズの響きが攻め立てる。

 ──あの子が流す血潮で、わたしの沃野を潤すんだ……!


 見失うわけがない。逃すはずがない。
 きっちりと洋平の背中を捕捉し、後を追い続けた。
 自転車が止まる。小さな公園の前。
 即座に走査した。
 ──いた。ベンチにあの女が、どれだけ憎しみを注いでも足りない雌狐が腰掛けている。
 洋平は自転車から降りてゆっくりと歩いて行く。それに気づいたのか、荒木麻耶も顔を上げる。
 目を細める。口角を僅かに吊り上げる。笑み。視線は明らかに洋平へ固定されている。
 ──虫酸が走る。
 そんな顔で洋平を見るな……! そんな顔で笑うんじゃない……!
 もう洋平の反応が何であれ、関係なかった。たとえ彼女が彼のもとから離れたとしても、あの微笑みを浮かべることは許容できなかった。少しでも幸せそうな素振りを見せるだけで、心が熱くざわめく。
 息をしていることさえ許しがたい。
 当然じゃない──あんな……あんなことを……

 わたしよりも早く! したんだから!

 全身が発火しそうな怒り。衝き動かされて弓を取る。矢を筒から抜く。
 まだふたりのいるあたりまで数百メートル。駆け寄るのに時間が掛かる。
 その間にできうるかぎりの精神統一を図る。絶対に外さないように。
 闇からの狙撃──決断は揺るぎなかった。
 「眼」を持っているわたしならともかく、街灯程度の明かりしかない彼女にはよけられないだろう。
 やっぱり威嚇はなしにしよう……無警告で実射してあげる。
 すぐには死なせないつもりだ。まず足を狙う。動きを止めたところで両肩を射抜き抵抗力を奪う。あとは接近して好きなだけ痛めつけ、最後に体を蹴り転がしてうつ伏せにさせて腎臓を貫く。苦しんで死ぬといい。
 洋平は殺さない。殺せるわけがない。
 ただ、二度とこんなことがないように配慮しなくちゃいけない。
 うん、そうだね……とりあえずアキレス腱を切って、手錠を繋いで、鎖付きの首輪を掛けて、町外れにある廃工場の中に閉じ込めなきゃ。あはっ。わたし、暇なときに「洋平とふたりきりになれる隔離ポイント」をピックアップしたことがあるんだ。地図を眺めて、下見に行って周りを「眼」で走査して、ここなら「何か」を飼い殺すにはうってつけかなぁ、って想像して楽しんだりしたんだよ。特に有望な場所にはあらかじめ保存食糧と生活用品を運び込んでおいたよ。今からでも暮らせるよ。
 雌狐を射殺し次第、すぐそこに向かうからね、洋平?
 もう他の娘なんかに誘惑されたりなんかしたらダメだよ──
 あんまり殺しすぎると、捕まっちゃうじゃない。
 距離、残り二百。必ず中てるには三十メートルくらいは近づきたい。それも、気づかれないよう静粛に。
 一旦ふたりから「眼」を離して、辺りの地形を探った方がいいか──
 そう思って千里眼を解除しかけたとき。不意に荒木麻耶が腕を伸ばし、洋平の首に巻きつけた。
 グッと背伸びして、爪先立ちの格好になって。
 そっと、キスをした。
 いや。
 そのままむちゅー、ぶちゅーとディープに移行していった。
 ……あは、は。
 これ以上ないと思うほど煮え滾っていた心が、沸点を超えた。
 小賢しい計算はやめた。辺りの地形? 知ったことか。直線距離を走破して、相手が気づこうと構わず矢を放って足止めしてやればいい。こそこそする必要なんてない。わたしには夜の闇という味方がいる。強引に攻めたって、あの子に抗う術はないんだ。
 あは。殺してやる……殺してやる! 殺してやる! あの碧眼に矢をぶち込んで潰してやる!
 何も見えない暗闇の中で痛みと恐怖におののきながら苦しみ抜いて死ねばいい!
 「眼」に。そして足に、ありったけの力を懸けていざ馳せ参じんと──


 ──走り出した、そのとき。
 爪先立ちをした雌狐が首を捻り、振り返る。
 「眼」が合った。

 え?
 なに。
 視え、てるの?

 彼女の視線は虚空を渡って、明らかにこちらの存在を見抜いていた。
 もう百メートルとない。見えていてもおかしくない距離──それは昼なら、だ。
 今は夜。街灯があると言っても数はまばら。はっきりと姿が映るわけはない。
 気配を察した? ありえなくもない。静寂に満ちた夜間ならちょっとした足音でも随分響く。
 きっと、そうだ。つい我を失ったわたしが余計な音を立てて気づかれてしまい──
 ……ちょっと待った。
 音?
 ──そういえば音だ。どうなっているんだろう?
 何も聞こえない。
 何も聞こえないんだよ?
 ……ああ、そうか。「眼」に集中しすぎて、五感が鈍っていたんだ。いけない、いけない。
 意識するとともに「眼」の発動を止めた。

 途端に。

 耳をつんざく轟音。
 瞳を射る光の洪水。
 ──え?
 細めた目蓋の間から、狭まった視界を捉える。
 飛び込んできたのは赤──横断歩道の先で冷然と灯る信号機の赤。
 それがやけに近く感じられる。
 他でもない。
 わたしは、横断歩道の上に立ち尽くしていた。
 脳裡を駆け巡っていく──過去の記憶。洋平を捜して駆け回り、「眼」に意識をやりすぎて転んだり
電柱にぶつかったり側溝に嵌まったりした、微笑ましい日々。
 翻って微塵も微笑ましくもない今、この場所。
 即座に理解する。
 あっ、ここ、車道なんだ──
 なんてドジなんだろう、わたしは。
 はは──うっかりして、住宅地から抜けたことも分からなかっ

 ────ッ

 それ以上考え切る余裕もなく。
 横合いから襲ってきた物凄い衝撃に何もかもが掻っ攫われていった。
 あ……
 意識が漂白される。
 唯一残った感覚は、「眼」だけ。
 嘘みたいに高く、速く、メリーゴーランドみたいにくるくると回る視線の果てで。
 あの子が勝ち誇ったように嗤っていた。



(Act.17へ)
# by sikaisen | 2007-04-15 19:03

    
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